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■エロティシズムのメモとタンゴの動画と

2023/09/10

 

(*カラヴァッジョの「法悦のマグダラのマリア」)

 

 資料を整理していたら、以前「路子サロン」で「エロティシズム」をテーマにしたときのものが出てきた。

 たとえばスクリャービン(1872-1915)のこと。ロシアの神秘主義的作曲家。

 ニーチェに傾倒し、自分の誕生日が12月25日だったことから神智主義(自分には霊的能力がある、神を見ることができるという思想)者となった。交響曲「法悦の詩」これ、原題は「ポエム・ド・エクスタシー」。男女の性行為がしだいに高まり、ついにクライマックスに達するところを表現した。

 最後の3分間のクライマックス、忘我の境地、ぜひ味わって。

 とメモにある。

 すっかり忘れていたなあ。

 それから澁澤龍彦のエロティシズムについてのメモ。 

「単純な性的行動は、エロティシズムとは異なる。前者は動物の生活のなかにあるものであって、ただ人間の生活だけが、おそらくエロティシズムの名にふさわしい悪魔的な相をあらわす活動を示すのである。」

 松岡正剛の言葉のメモ。

 ぼくが知るかぎり、「エロスとタナトス」という言葉が大好きで、これをやたらに連発するのはアラーキーこと荒木経惟である。「ぼくの写真はエロスとタナトスを撮っているからね」「ほら、この花がさ、エロスとタナトスの裏返しなんだよ」「やっぱりエロスを追求するとタナトスになるんだよな」というふうに。

 アラーキーの写真が「エロスとタナトス」の写像的二重性によって成り立っていることは、まさに本人が言う通りで、これほど一貫した主題が撮り続けられているのは他の写真家には見られぬほどである。アラーキーが言うような「エロスはタナトスで、タナトスはエロスだ」というような見方は、いったいどのように認知されてきたのかというと、これはやっぱりフロイト(1856-1939)までさかのぼる。

 フロイトが『快感原則の彼岸』において、エロス(生)とタナトス(死)を対比させ、生の欲望と死の欲望を二重化し対置性をもって解釈しようとしたのが、そもそもの「エロスとタナトス」流行の淵源だった。

……。

 あれ。どこからの引用かメモに書いていないな。だめじゃないの。

 それから私のメモとして。

 エロス=生、性の本能、自己保存の本能?

 タナトス=死、攻撃、自己破壊の本能? ギリシア神話、死そのものを神格した神

 じゃあエロティシズムは? 性的活動への期待に関連してる。性行為そのものにはない。想像、妄想と関係がふかい。

 ポルノグラフィーは、金銭的商業的なものの色合いが濃い。

 ようするに、性の世界もまた多種多様で人間の数だけ性的好みがある。そしてエロティシズムは実際の性行為のなかにはない、って私は言い切れる。人間の頭のなかにある。イメージ。

 何を見てエロティックと思うかはひとそれぞれという当たり前の真実がある。それでも、たとえばエロティックな絵画として有名な作品は、そこにあるエロティシズムが、多くの人のそれに合致しているか、あるいはその真逆で反感をかい有名になっているのだと思う。

 そして言ってしまうならば、エロティズムうんぬんの本は結局のところ、わたしはこんなところに反応してしまうのです、という告白本。

 ……。

 メモは続くけれど、このくらいにしておこう。

 それにしても。エロティシズム研究にあけくれていた時期があったなあ。遠い目をしてしまう。

 

 昨日はいちにち、疲れ切ってしまって使いものにならなかった。ぼんやりと夜を過ごしていたらお友だちからメッセージが。

 YouTubeのリンクがあり、これを知っているかという問いと、自分はとても好きなのだということが書いてあった。

 リンクを開いてみると、そこには、私もいいなあ、と思って自分の「Tango」フォルダーに保存しておいた1曲、ひとくみのペアのタンゴがあった。

 好きなひとが、私が好きだと思った動画を送ってくれるということの悦びのなかで、満たされたひとときをすごした。

 エロティシズムについていま書きながら、昨夜の、そんなひととき、1曲のタンゴを思い出した。

 

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