ブログ「言葉美術館」

■ダリアとジョセフィーヌと脱力と

 

 美しい深紅のダリアをいただいた。

 思いがけない贈り物はそれだけでときめくものだけれど、それが花だとなおさらなのはなぜだろう。

 きっと残るものではないからだ。残らないどころかとても短い命だからだ。

 そんな、すぐに消えゆくものなのに、ひとはなぜ花を贈るのだろう。

 イベント時のおつきあいは別として、とくにこれといった理由があるわけでもなく、ただなんとなく贈りたくなって贈る。その気持ちの根底に流れているものは、その瞬間でいい、その瞬間だからこそいい、という刹那への憧憬があるように想う。

 ダリアは私の好きな花のうちのひとつ。花言葉もたしか好みだったはず、でも忘れちゃった、と調べてみれば、そうそうこれこれ。

 もちろんその姿かたちからして、優雅、気品といった言葉もたずさえている。けれど一方で、移り気、裏切り、不安定…といった暗めの言葉もたずさえる。

 暗めの言葉はどこからきているかといえばナポレオンの妻ジョセフィーヌで、ジョセフィーヌといえば薔薇を愛したことでよく知られているけれど、ダリアも好き。それで、庭に美しいダリアを咲かせていて、それを羨んだライバルだかお友だちなんだか、とにかく同じ階級の女性が、ダリアの球根をわけて、とお願いするけれどジョセフィーヌは拒絶。

 お願いした女性もまたなんだかなあ、というひとで庭師だか侍女だかをまるめこんで球根を盗んじゃった(これが裏切り、かな)。それで自分の庭にダリアを咲かせた。

 それを知ったジョセフィーヌのその後が面白い。ほかの誰かの庭にも咲いている花なんて、もう興味がないわ、ということでダリアそのものへの興味を失ってしまった(これが移り気、かな)。

 私はずーっと昔にジョセフィーヌのことを色々調べたことがあって、このあたりのエピソードには諸説がある。

 それは置いておいて、このエピソードから私はいろんなことを想像する。

 自分だけの男だったから愛でていたのに、ほかの女の男にもなるだなんて、もうその時点で私、その男への興味を失うのよね。

 と似ているなあと。

 でもダリアの球根はとことこ歩いてほかのひとの庭に行ったわけではない。自分の力およばず、気づいたら別の庭で咲いていた。

 そういうこと、人間世界でもあるな。アルコールにより記憶がなくなり気づけば、とか。

 そんなことを想う木曜日の夕刻。

 

 前回のブログは9月24日だった。いつこんなに、ときが経ったの。

 10月4日に次作の完成原稿を編集者さんに送ってから、いろんな出来事があった。そのときどきで考えて悩んできたりしてきたけれど、基本的に、ぎゅうぎゅうにしぼってしぼってもう、なんにも滴り落ちない雑巾状態なので、ぼんやりと考えぼんやりと悩んできた、といったかんじ。

 脱稿したわけではない。出版まではまだまだ何段階か集中すべき時期がある。ゲラのチェック、あとがき、参考文献……。

 だからいまは力を蓄えているんだ、と言い聞かせる。

 それにしてもブログさえ書く気にならないだなんて、路子倶楽部の存在がないとこうなっちゃう私ってどうなのよ、とこころから自分に疑問をいだく。

 ふう。

 それでもこんなのも繰り返していると、きっといつかそのときがきたら浮上するだろう、というへんな自信みたいのもあったりする。

 部屋の隅に置かれたダリアが、こんな私を、あわれんで見つめているような気がするわ。

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