◎Tango アルゼンチンタンゴ ブログ「言葉美術館」 私のタンゴライフ
■久しぶりにタンゴの話
2023/09/10
もうずっと「受験勉強時代」みたいな日々を送っている。7月刊行予定の新刊は書き下ろし。私史上初の執筆期間2ヶ月。いままで最短が4ヶ月だったことを思えば、もう絶句するほどに集中しないと無理な話。でも、この締め切りと刊行は自分で決めた。このタイミングでこの本を書きたい、と。
だから、すごく大変なんだけど、その大変さは、自分でやりたいことに没頭していることからくる大変さだから、なんていうのかな、たぶん気持ちいい、M的気分。
しかーも、引っ越しという大事業が重なって、もう……。
そんななか、私を支えているのは自分に許している、週に一度のタンゴ。
ほんとうにタンゴに救われている。どんなに疲れていても「ここに行けばそれがある」という場所になら行ける。行きたい、って思う。
先日のタンゴタイムも極上だった。私はそのときを楽しみに黙々と地味な執筆ライフを送っていたこともあって(メイクも一週間ぶりにしたくらいよ)、そしてその日の気分体調、その場の雰囲気もあって、いまの自分をそのままさらけだし、それを恥じないタンゴが踊れたように思う。翌日、起き抜けの顔を鏡で見て、ああ、この顔、あれだ、って思った。わかる人にはわかるでしょう。満たされたあとにしか見ることができない顔。
そのタンゴタイム中のおしゃべりも極上で、何かの流れでブエノスアイレスに行ったときに見たデモンストレーションの話になった。はじめてデモンストレーションで惹きつけられて拍手を送ったのよ、と。
そこにいたお友だちが詳細を知りたがったから、あとでリンク送るね、って約束したけど、ここに書くことでそれを果たそうと思う。
そのときのペアは、昨年度の世界チャンピオンとなった。遅いよ。と私はその情報を得たとき思った。彼らより私がいいなあ、と思う人はいないのに(出場者のなかにね)、別の人がチャンピオンとかになっていたから。ぷんぷん。(←ミーハー素人)
当然、なにかしらのコンテストに出るということは、自分のしていることを他人にジャッジさせることを容認する、という前提がある。審査員に誰がいるかって重要なんだろうなあ、と想像する。なぜなら、「誰に」ジャッジされるか、って大問題だと思うから。嫌いな人尊敬できない人に点数つけられたくないだろうなあ、って。
ずっとずっと昔、本の業界のある人が言っていた。審査員(同業者)が激しく嫉妬するような作品は賞を取れないんだよ、って。
もしかしたらタンゴでもそういうのがあるのかな。どうなのかな。観客の拍手の大きさで決めたらまた違ってくるのかな。
話がそれた。何が言いたいかというと、それでもプロのダンサーを生業にしてゆくには、そんなことを言っていられない現実もあり、その上で私が好きなこのふたりは、なんというのかな、ふたりの世界を楽しんでいて、自由。それが違うとしても少なくとも「ああ、がんばったんだねえ」という感覚をいだかせない。もちろん、それだけのものを見せるためには、とんでもない努力、鍛錬があって、でもそれを「感じさせない」ってことがほんとうの才能なのではないか。
一般的なスポーツとタンゴを比較したとき、ひとつ浮かぶのがアルコールというキーワード。ごめんなさい不真面目で。
私は三十代半ばくらいまではスポーツに熱中していた。テニス。そのあとはエアロビクスもしたしヨガも経験した。合気道めいたものもした。名入りの道着まで作ったことがある。
これらはアルコールが入ったらできないけれど、タンゴは違って、度を越したらもちろんだめなんだけど、適度のアルコールはプラスに作用する。私の場合。これがタンゴがスポーツではないことの証。あくまでも私だけの話ですよ。←私は小心者ゆえこわいのです、誰かから悪口言われるのが。じっさい、いくつも耳に入ってきていて私なりにちゃんと傷ついているから。
さてさて。
私は老いておちぶれて、路上で生活するようになっても、そこに何か感じ合う人がいたら、その人とタンゴを踊っているような気がする。曲が流れていなくても、パテティコなんかを口ずさみながらね。そういうのが私のタンゴなんだと思う。
いつも思うことだけど、タンゴってすごい。次にどのステップ、って決まっていないのに、相手のリードを感じられればそれができて、相手の感情と自分の感情にどのくらいの差異があって、あ、いま、すごく一致した、ってときがあって、愛しくてたまらないときがあって、涙あり、愛あり、ぎりぎりのところで止まる欲望あり。
タンゴは私にとって、もう、過分な、どこかのカミサマからの贈り物としか思えないものになっている、という話でした。
ということで、あの日のお友達のリクエストのおこたえして。
■私の初デモ拍手の話はこちらに。なつかしいブエノスアイレス。