ブログ「言葉美術館」

▪️大阪で出会った一冊の本『藍色の福音』

2023/06/10

 

 5月の終わり、2泊の予定の大阪出張が、ちょっとしたアクシデントにより8泊に延びてしまった。ちょっとしたアクシデント、と書いてはいけないかな、ブルーモーメントの大阪でのポップアップストア、搬入だけ手伝うつもりで娘に同行したのだけど、その娘が突然に体調不良となり、遠くで心配しているよりも近くで何かのときにサポートできたほうが私も気が楽、ということで大阪に残ることにしたのだった。特にすることもなく、夜遊びもする状況ではない、ということで、かなりの非日常を過ごした。

 彼女の体調が復活の兆しを見せ始めてようやく、私は、この突然に与えられた非日常に、自分のためになにかをしよう、という気になった。久しぶりにブログを書こうかな、とも思ったけれど、パソコンを持ってきていない。

 そこで、本を読むことにした。

 書店に行き、一冊の本を選ぼう。本を書くための資料としてではなく、いまの自分が欲している本を、じっくり探そう。

 紀伊國屋書店 梅田本店に出かけた。一時間くらい書店をさまよった。そして一冊の本に出会った。

 まず装丁の美しさに引き寄せられた。タイトルにも惹かれた。そして帯の言葉に、奇妙な感覚をいだいた。

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作家と出会い、言葉と出会う 生きることの傍には、常に「言葉」があった。

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 そして帯裏には

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河合隼雄、須賀敦子、小林秀雄、柳宗悦、堀辰雄ーー

自らの軌跡と重ねて綴る、特別な一冊

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 あれ? なにか、似ているものを感じる。

 著者の若松英輔という人を私は知らなかった。著者プロフィールを見ると、私よりも二つ年下の批評家、随筆家。たくさんの権威ある賞を受賞している人だった。

 迷わずに購入し、ホテルに帰って、本を開いた。

 そこには、言葉をふかく愛し、たいせつにしているひとりの人がいた。自らの物書きになるまでの人生、物書きになってからの人生と出会った本や作家、言葉との出会いが絶妙な色合いで織りなされている。

 なにか、似ているものを感じる。という感覚はまちがいではなかった。須賀敦子にしてもリルケにしても引用される言葉に、なつかしさを覚えた。

 たとえば、リルケの「若き詩人への手紙」からの引用、次の一節。

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あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないのかと。深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ちたてて下さい。

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 これはその昔、ノートに書き写し、ブログ記事でも書いている。

 けれどこうして他の人が、「文字通り邂逅を経験した」として紹介していると、また違う色彩で私の目に映る。何度も読み返してしまった。そしてこれまでに何度も繰り返した問いを、リルケの言葉にしたがって自分にする。私は書かなければならないのかと。そして、ここでパソコンのキーを打つ手がとまってしまう。

 著者が10代の終わりのころに、大原美術館で芸術というものにふれたときのことを「美の経験」、「胸を貫くという美の衝撃」と表現している箇所を読んだときには、思わず声が出た。共通項が多いなあ。

 けれど、タイトルの「福音」からもわかるように、著者はキリスト教の信者。曾野綾子にしても須賀敦子にしても、好きな作家がキリスト教の信者であることを、自分との差異を、見つめ続けていた日々のことを思い出した。信仰があるなし、ということで、どんなに好きな作家でも、彼らの言うこと感じることを決定的に私は受け取ることができないのではないか、といったそんなことを考えていた日々を。

 しかし、難しかった。流して読みたくはなかったから、何日もかかってしまった。私にはこういう文章をすらすら読めるような頭脳がないんだな、ということをひしひしと感じた。

 著者は小林秀雄を敬愛していて、私は小林秀雄に喧嘩を売っていた坂口安吾が好きだからかな、なんて思いながらの読書だった。

 ただ、読んでいる間は、とてもみたされていた。私が好きな世界に身を置いていると感じられたからで、それは思考するということにつきる。かんたんなこと、わかりやすいことは大事だけれど、ときには考えなさいよ、と促されたいのだろう。

 久しぶりに、読書をした。本は山のように読んでいる。けれどそれは資料として読んでいるのであって、いまの私が欲しいものを求めてのものではないからね。

 一冊の本の力を感じられたことはよかった。同世代にこのような仕事をしている人がいることを知ることができてよかった。そして私はこれからどうするのだろう、と考えている。

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