ブログ「言葉美術館」

▪️気難しさと美しいライブと

 

 5月の下旬に『彼女たちの20代』を脱稿して、『ピカソの言葉』から7ヵ月くらい続いた、何をしていても原稿のことが離れない状態がいったん終わって、私は、軽やかな気分になって、この7ヵ月間、ひかえてきた予定をたくさん入れた。趣味のタンゴの時間を増やし、たまたまいくつかのイベント色に彩られた会があったので出かけた。私に会いたいと言ってくれる人たちとの予定をたくさん入れたから、なつかしい人たちとのおしゃべりもできた。ブルーモーメントの渋谷のPOP-UPストアではサイン会などもあり、『彼女たちの20代』が驚くほどに売れている様子、まったく知らない人たちが目の前で本のページを繰り、購入してくれるという光景に、こそばゆいような嬉しいような不思議な感覚をいだいたりしていた。

 つまり、私としては、とても社交的な日常を送っていたのだと思う。3週間くらいの間。

 そんな生活のなか、痛感したことがあって、それは私自身の気難しさだった。

 あの人は気難しい人よね、と言うときは「我が強かったり神経質だったりして扱いにくいよね」みたいな意味が含まれるのかな。「機嫌をとるのが難しい」という意味もあるかな。

 私は周囲の人たちにそう思われていることを痛感したのではない。扱いにくく、機嫌をとるのが難しい、私自身に手を焼いていたのだった。

 気難しい自分自身に閉口しながら、しばしば頭に浮かんだことがあって、それは養老孟司の対談記事だった。5月16日に読んで保存していた。

 ヴォーグ・ジャパンの記事で、1937年生まれの養老孟司が1999年生まれの佐野めぐみさんと対談している。

 そこで私は、永遠にふれあうことがない人たちの会話を聞いたように思ったのだった。

 人はみなそれぞれだから、すべてをわかりあえなくていい、といった多様性がひとつのテーマであるふたりの会話が、そんなふうだったから興味深かった。年齢差あるふたりの対談、ということを売りにしていることもあるから、年齢差もあるのかもしれないけれど、それだけではない。

 決定的なところがあって。

養老孟司:研究とは、必ずしも今現在の社会に役に立つ必要はないと、僕は思っているんです。人生もそう。誰もが何かを成し遂げなければいけない、なんてことはない。人生の目的は、煎じ詰めればそもそもないのだから、目的がないということに悩む必要はないんです。

佐野めぐみさん:私は人生に目的はあると思います。ただ、私も時々陥るのですが、人間は自分の人生の意味を言葉で伝えるときに、かっこよく聞こえるように修正してしまうことがあります。そうすると、本当の「自分の人生の意味」からずれてしまう。(以下略)

 人生に目的はない、というところに私もいて、そしてそこに至るまでの苦悩を思って、勝手に養老孟司と仲良くなったような気になるのだけど、その言葉に対して、それはどういうことか、どうしてそのように思うのか、と問うことなく、「私は人生に目的はあると思います」とさらりと言えてしまう人がいて、その後に続く言葉も、私には意味不明に感じられて…、いや、やはりずれていて、なにか、ここに私がいつも疑問を抱いたり、言葉をのみこんだりしているときの、自分のなかの異物の正体みたいなものがあるような気がした。

 3週間の社交生活のなか、なんどもこの対談、とくにこの箇所が頭に浮かんでいた。

 あるときなどは、周囲の人たちが、駅ですれ違う見知らぬ人でさえも、彼らがずっと私に向かって「私は人生に目的はあると思います」と明るく語りかけているような感覚になるときもあって、それはひどい孤立感だった。

 「私は人生に目的はあると思います」は象徴にすぎない。私がそれは違う、と思うことを、さらりと行なっている人たちに対して、言葉をつくして違うと思う理由を語っても徒労に終わることはわかっているし、嫌なきもちにさせるのもどうかと思って言葉を飲みこむ。飲みこみすぎて私はきもちが悪くなってくる。このかんじは、娘のおもに小学校時代の社交でよくあったことを思い出す。そして私は言えないことをひたすらに書いて書いて書いていたのだった。

 だから、ひとりきりの時間をもって、じっくりと考えてみれば、何をいまさら、となり、落ち着くのだけれど、あの孤立感はたまらないです。けっして好き好んでそんなふうになっているわけではない。そして自分の気難しさが、ひどくうっとうしい。

 養老孟司の、心に刺さった言葉がある。

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一番怖いのは、人間には「できることをやってしまう」という、悪い癖があることです。「できることをやらない」という成熟に達することが、本当に難しい。

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 これは科学技術の発達に関しての深い言葉なのだけれど、浅い私は、自分の生活にも言えるな、と思った。

 できることをすべてやらない。

 これは創作にも言えるな。知っていることをすべて書けばいいわけではないものね。そしてこれはあらゆる分野においても言えることでしょう。とくに表現の場においては。

 違うのかな。

 そんなことを考えているときに「よいこの映画時間」を担当してくれているりきちゃんから、動画が送られてきた。

 その昔、一度だけりきちゃんから誘われて出かけた「mama!milk」、久しぶりの横浜のライブに誘われたのに、社交に疲れていた私は、断ったのだった。動画を見て、涙があふれた。あまりにも美しくて。泣きながら私は自分がこんなにも美を渇望していたことを知った。

 

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