*フェイスブック記事 アルゼンチンタンゴ ブログ「言葉美術館」 私のタンゴライフ

▪️大学のキャンパスと異空間でのタンゴ

 

 その朝、というかお昼近くに、久しぶりにfacebookを開いたら、いちばん上の投稿に「読む音楽」のお知らせがあった。

 タンゴ、朗読、中山可穂。私が興味を惹かれる三つが揃っている。

 そういえば、ずっと前にも見た記憶があるけれど、そのときはそのまま流していた。原稿に追われていた時期だったから。

 記事を見てみると、今夜の開催で、席がまだあるから当日入れます、とあった。場所は東大の駒場キャンパス。以前にもファッションかなんかのイベントで訪れたことがあり、あのときの香り、甘ずっぱいムードを思い出した。

 数日前、土曜日の夜あたりに、次に書きたい本のテーマが決まって、資料と取り組み始めていた、そんな日だった。きっとこれから集中して五時間ほど資料を読むだろう、そのあと、ちょっと行ってみようかな。

 というわけで出かけてきた。

 大学のキャンパスはいつだって、私に甘ずっぱい香りを提供してくれる。ああ、生まれ変わったら、ぜったいに大学では遊びほうけないで、がんがんいろんなこと勉強するぞ、という意味不明の後悔なんだかファンタジーなんだか、そんな想いも浮かぶ。東大ってマスク率高いんだなあ、なんてことをすれ違う学生の人たちをチラ見しながら思って、もっとほかに彼らの雰囲気からなにか感じ取れないものかね、と自分にがっかりしながら、陽がおちたキャンパスを歩いた。

 このきぶん、異空間に身を置いている感覚、過去への郷愁、これが感じたかったのかも。

 学生の人たちで企画されたイベント。私は勝手に朗読と音楽の共演(私がしていたような)だと思っていて、一部が朗読、休憩挟んで二部が音楽という構成にちょっと拍子抜けしたけれど、それは私の勝手な都合。

 大学のイベントスペース、そこは、きっと偉い先生とかが来たときに講演で利用されたりするんだろうな、思わせる場のムードというか、その部屋に染みついた、たたずまいがあった。

 中山可穂は一時期夢中になった作家。いまでも彼女の作品のうちの何作かは私にとって特別だ。

 朗読された「ドブレAの悲しみ」は私の偏愛ベスト5には入らないけれど、朗読で聴くのは新鮮だった。

 

 二部、ピアノ、ヴァイオリン、コントラバス、そしてバンドネオン。バンドネオン奏者の鈴木崇朗さんの演奏は、いろんなところで聴いている。

 今回はすべてがピアソラで、一曲一曲、ていねいに曲の説明やピアソラの説明が入った。鈴木崇朗さんが、あんなにたくさん話している姿は私には初めてだった。

 会場は、私が見た感じ、ステージに立つ人たちの家族や友人知人たち。タンゴとはほぼ無縁の人たちだったと思う。

 それは贅沢な音楽の授業みたいだった。

 となりのぴちぴち、って音がするくらいに若い男女のカップル、女の子のほうが休憩中に男の子に言っていた。

「さっきの小説で出てきた、音楽家の名前、ちょうどこの間の授業でやったばかり。すごい偶然!」

 デ・カロ、プグリエーセ、カナロ、トロイロといった名前が小説のなかに出てきていた。

 どんな授業なのよう、と足を組み替えるふりをしてちょっとだけ近寄って聞き耳をたててしまった。はしたない私。男の子が私の望む質問をしてくれた。女の子が答える。

「ラテン音楽の授業」

 大学のときにラテン音楽の授業。いいなあ、と思ったが、あのころの遊びほうけていた私には刺さらなかったのだろう。なにごともタイミング。

 アンコールはリベルタンゴで終わった。リベルタンゴ、というタイトルに客席が、その日のなかでもっとも熱を帯びた。やはり有名なんだなあ、と思う。私でさえ、30代のころからピアソラのCDは聴いていたものね。

 音楽の授業に参加したような、そんなひととき、客席の人たちが何を感じているのだろう、とそんなことばかりを考えていた。寝てる人もいたけど(授業っぽい)、わりと前のめりモードの人が多かったように思う。

 私のまったく知らないところで、こんなふうな時間が、いろんなところで作られているのだろう。そして、もしかしたら、この会場のなかの誰かが、これをきっかけにタンゴワールドに入ってきたりするのかもしれないな。
 私、もっともっと、タンゴに対して慎み深くなる必要がある。

 

 会場を出ると、雨がぽつりぽつり、なまぬるい空気のなかを落ちてきていた。

 胸がしずかにざわめく。なんだろう、このかんじ。

 井の頭線が来るのを待って、渋谷の雑踏を歩いて乗り換えをして、しずかにざわざわしながら帰途についた。

 その夜、眠る前のワインタイム、アイデアがどかんとおりてきて、私は忘れないように必死でノートにそのアイデアをメモした。タンゴの物語のアイデアだった。

 

 倦怠の空気感を察知したらそれが退屈に変わる前に手をうつこと。

 自分の心の動きの問題はほかの人に期待しないで、自分でなんとかすること。

 

 そんなことが、私ったら、できるようになったとか。いや、たまたまでしょう。

 そんなことを書きとめておこうと思った。

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