ブログ「言葉美術館」

▪️濃密な午後のこと

 

「ああ、私はこのひとの、こんなところが愛しいんだ」

 と何度目かの再確認をするように、強く思う瞬間がある。

 先日、そんな瞬間が、一度ではなく数回あるような、そんな会話の時間をもった。

 出会ってからもう13年くらいが経つ彼女とは、頻繁に会うわけではない。彼女がパリに住んでいた時期などもあるから、でもそのときはたまたま、パリで会えて、ゴッホを訪ねる小旅行、オーヴェル=シュル=オワーズにつきあってもらった。

 今回も会うのはほぼ半年ぶり。

 喉が枯れるほど、とはあのこと。互いにしゃべりまくって、気づけば4時間近くが経過していた。帰り際、お互いに照れるように、「飢えているから…」と告白しあった。こういう時間に飢えているから。

 彼女はさいきんはじめてふれたという「新内節(しんないぶし)」の話をしてくれた。日本の伝統芸能にも疎い私に「浄瑠璃の一流派です。人形なしの浄瑠璃という理解でよいかと」と説明してくれて、彼女が鑑賞した「明烏(あけがらす)」の物語を語ってくれたのだが、衝撃のラストを話しているときの、彼女の表情や声の響き、息づかいに、強く物語世界にひきこまれてしまう。

 ラストを話し終えて、彼女はこみあげた涙をハンカチで拭う。恥ずかしそうに「ほんとうに感激してしまったので」と言いながら。

ーーああ、私はこのひとの、こんなところが愛しいんだ。

 新内節についての話のなかではいくつかのキーワードがあった。まずは、語るときにたいせつな「間」。

「ma」は日本独自の概念として海外の人たちにも知られているのだという。あるモノとあるモノのあいだ、ではない「ま」。置き換える外国語がない単語、わび、さび、のように翻訳ができない言葉のひとつなのだと言う。 

 物語を読むということ。語る、ということ。その伝達手段では、この「ま」というものがとても重要になってくる。

 うん、それはわかるなあ。私も朗読劇をしたときに、すごく意識した。ここで息を吸うのか、吐くのか、それを目立つようにするのか、わからないようにするのか。そういうことも含めて。

 そして、タンゴを踊っているときにも、ふと「ま」を意識することがある。興味深いことだ。

 そして「あきらめる」もキーワード。

 仏教の教えでもある。「あきらめる」って「明らかに見る」ってこと。これは色んな人が言っていて、私も、いますぐに思い出せないのが残念なのだけど、何冊かの本で目にしている。

 自分自身のことについては、「ぜったい、あきらめない」なんて、ぜったいに、だめ。愚か。自分自身のことだからこそ、明らかに見なくては。「逃避の名言集」や「大人の美学」にもそんなことを織りこんだつもり。さっさとあきらめすぎる、と言われることも少なくなく、それもどうかと自省はしているけれど。

 さて、「あきらめる」から似ているけれど「しょうがない」もキーワードとして在る。仕様がない。もうどんな手段もないから現状を受け入れましょう、みたいなときに使うかな。

 私は「しょうがない」って表現はあまりしなくて、「どうしようもない」「どうにもならない」と表現することが多い。そして使うことも多い。そんなことばかりの人生だからか。ああ。

 そのつながりのキーワードとして「あわれ」もある。

 哀れ。さまざまな意味がある。ある感動が胸につよくじんわりと広がる、そのような意味もあるし、また、悲しい境遇にある人に寄せる感情の意味もある。他者の悲しみ、心の動きに寄り添うこの感情を私は美しいと思う。

 敬愛する中田耕治先生はよく「かわいそう」という言葉を口にしていた。先生が「かわいそう」というときのようすが、やさしさに満ちていて、私はそれがとても好きだった。先生を知るまでは「かわいそう」って、上から目線、対象を見下ろしているような言葉だと思っていたけど、違った。「あわれ」なのだ。

 イヴ・サンローランの話を私が持ち出す。私が知らないたくさんのことを惜しみなく彼女は語ってくれる。サンローランの絵本「おてんばルル」を最近読んだと言えば「あれ、おもしろいですよね、うちにもあります」って、あたりまえのように返すひとは彼女しかいないだろう。

 最近のファッション界についてもたくさんのことを話してくれた。

 そのなかで、ルイ・ヴィトンの2024春夏メンズコレクションについて、ランウェイがポンヌフ橋だということ、フルオーケストラ、ゴスペル、パリの街並み…いまのりにのっているブランドだからこその、お金をどっさり使ったショー…彼女の語りに私は夕刻のパリへ旅をする。ひきこまれる。美しい短編映画を観たような感覚になる。

「ポンヌフ橋とパリの街がほんとうに美しくて、ああ、私はあの街が好きなんだなあ、って…」

 彼女は華奢な手を胸にあてて、好きなんだなあ、って表情をする。

ーーああ、私はこのひとの、こんなところが愛しいんだ。

 ぜひ、ご覧になってください。いろいろ言いたいことはありますが、ああ、いま、現在のファッションってこうなんだな、というものはたしかにありますから。何かをお感じになると思います。

 ということで帰宅してユーチューブで鑑賞。たしかに圧倒された。もはやファッションショーというカテゴリーでは語れない。

 ラストシーン。あおく染まったパリの空は、息をのむほどに美しい。まさにブルーモーメント。フランス語ではルール・ブルーよ。私がつけている香水の名よ。ゲランの。カトリーヌ・ドヌーヴが「最初の美的洗礼」って言った、あの香水の名。

 ショーそのものは、彼女の語りのほうがずっと胸に響いた。百聞は一見しかず、って違うんじゃないかな。

 彼女から聞いた物語のほうが、胸にしみてイマジネーションも広がって、結果、つよく胸に残るってことあるんじゃないかな。「ma」が絶妙だったのかも。

 それにしても、次作で無謀にもファッションデザイナーにまたまた挑もうとしている私に対する、専門家である彼女の姿勢には、ひれ伏したいほどの尊敬をいだく。知識が圧倒的に少ない私に、まったく劣等感を感じさせないのだから。そう、彼女は私が大好きな知性の人のひとり。

 学ぶこと、知らなかったことを知ったときの喜び、好きな人同士がつながっていることを知ったときの興奮についても、うなずきあいながら語り合った。たとえば、カミュ、サンローラン、サガンのつながり。

 頻繁に会わなくても会った瞬間、近況報告なしで、心動いたこと、興味のあることについて話せるっていいな。

 そして、彼女に会うたびに思う。学び続けているひとって、こんなに魅力的だ、って。

 

 ドラン・ショックのときと同じ、語り尽くせていないけれど、このまま公開しよう。お友だちが前回のドラン・ショックの記事を読んで、こんなメッセージをくれたから。私が「語り尽くせていない」と言ったことに対して。

「路子さんのドランに関する文章から、まさに語り尽くせない部分が滲み出していて、その想いに反応したのだと、いま、思いました。最近はすべてを言語化する行為そのものは、時には文章を味気なくすることがあるなあ、と考えていて、“言語化したい”という想いの方が胸を打つ気がしています。」

 どこかで誰かが読んでくれていて、なにかを感じ、なにかを想ってくれている。胸にしみる。

 メイ・サートンのあの言葉だ。

「私の仕事を発見してくれるであろうどこかにいる誰かの孤独と私の孤独とのあいだには真のコミュニオンがある」

*ルイ・ヴィトンの2024春夏メンズコレクションはこちらです。

 

 

 

 

 

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