▪️それ、やめてもいいんだよ。ドラン・ショックのなかで思ったこと。
大好きな映画監督のひとり、グザヴィエ・ドランが引退するというニュースを知ったときの衝撃は大きかった。
マドンナが病に倒れたニュースも、ピカソの恋人フランソワーズ・ジローが亡くなったニュースも心ゆれたけれど、今回のはがつんときた。
19歳で監督デビューして、いま彼は34歳。コアなファンがたくさんいて、私も含め多くの人が次作を楽しみにしていて、繊細な人であることは作品を見れば明らかだから、どこかでありえることだ、と思いながらも、でもまさか引退とは…。
この5日間くらいは、ドラン・ショック状態。さまざまな媒体の記事を読み、ドランのインスタグラムのメッセージを読み、彼の心情をおしはかる。
って、ほとんどは「よいこの映画時間」のりきマルソーが送ってくれる情報なんだけど、だから彼とラインであれこれドランの引退についてやりとりもしたのだけど、とにかく、ここ5日間くらい、ドラン・ショックが続いている。
好きな監督が引退しちゃう、さびしい。
という、そのままの感情もある。
けれど、ショックの理由は、ドランの引退の理由が、私に強烈な問題を投げかけたからだ。ドランは言う。
ーーあれはコロナ前の2019年ごろだったかと思いますが、「自分の中にまだ語りたい物語はあるのか? そしてそれは他者に伝える意義のあるものなのか?」と自問したときに、答えられない状態に陥ってしまったんです。
まず、ここで私はドランから問いを、バン、って投げかけられた。それはドランの自問で、ドランは「答えられない状態に陥ってしまった」と言っているけれど、私はどうなのか。語りたい物語はある。たくさんではないけれど。けれどそれを他者に伝える意義はあるか、と問われると、「答えられない状態」に陥ってしまう。
ほかの記事を読むと、近年の映画の興行がうまくいかなくて、映画作りでお金を稼ぐのではなく、映画を作るためにお金を出さなくてはならない経済状況だったみたい。
近年の『ジョン・F・ドノヴァンの生と死』『マティアス&マキシム』、これらは「よいこの映画時間」でも取り上げていて、とりわけ、私は『ジョン・F・ドノヴァンの生と死』にとても胸うたれたから、あの映画がぜんぜん興行的にだめだったわけ?! と憤慨してしまった。
憤慨したから、確かめたいような想いで、U-NEXTで、じっくりと観た。2度目の鑑賞、やはりすばらしい映画だと思った。それが多くの人には受け入れられていないんだ…。ということは…私がよいと思うもの、思考、あれこれは、やはり多くの人には受け入れられないということか…。
さて、ふたたびドラン。
ーーそこからは自分のものづくりのサイクルを見直して、旅をしてみたり友人たちと過ごしたりする時間をきちんととるようにしました。いまはこうやって作品のプロモーションを行なってはいますが、よりプライベートの時間を優先していて、地方に自分でデザインした家を建てて、友人や家族と過ごせる場所づくりをしています。また、僕は未来に対しても楽観視はしていないので、これから来る新しい変化の波に備えておきたい、とも考えています。
先ほどお話ししたとおり、僕は自分の見聞きしてきたものが創作に反映されるタイプですから、 生活そのものをしっかり送ることで、自分の人生をつぶさに反芻することができ、結果的にクリエイティブにもつながっていくと思えるようになりました。充電期間を過ごしながら「今すぐ撮らないといけない! これを外に出さなければ死んでしまう」という緊急性を伴った衝動が生まれるのを待ってもいいんだと。それはきっと、観てくださる方にとっても価値のあるものだとも思います。
(装苑オンライン7月4日の記事より)
「未来に対しても楽観視はしていないので、これから来る新しい変化の波に備えておきたい」
というワンフレーズも、不気味に私に浸透してしまった。私、時代をみすえて、変化に備えるってことをぜんぜんしていない。今後私はどんなステージで何を演じようとしているんだろう。したいことと経済的な問題とどう向き合っていくのだろう。
覚醒と不安でぐらんぐらんしているような状態になってしまって、窓外の空までが不穏色に見えるよ。
時代は変わり続けている。小難しいと思わせるような映画は一部の人たちだけのものになってしまった。ドランも生まれる年が、もっと前だったならどうだっただろう。映画館でじっくり映画と向き合う人々が、たくさんいる時代だったら。自宅で二倍速で映画を観るような時代じゃなかったなら。
そして私は、本を読む人がどんどん少なくなっている時代を生きているのだ。
また、「生活そのものをしっかりと送る」ことによって、なにかいままでとは違う感覚をもつようになった、というあたり。
創作しなくちゃ、という、いつもそのことに追い立てられているような状況から自ら抜け出して、自分の生活に集中するということの意義。そして彼はいま、
「今すぐ撮らないといけない! これを外に出さなければ死んでしまう」という緊急性を伴った衝動が生まれるのを待ってもいいんだ。
って、思えるようになっているということ。
一方で、7月5日、スペインの「エル・バイス」紙のインタビューでは、ちょっと投げやりな発言をして、それが話題になった。
これからは映画ではなくストリーミングだということで、2022年11月にTVドラマ『ロリエ・ゴドローと、あの夜のこと』をリリースするのだけど、これが商業的に失敗。
「プロジェクトに2年も費やした挙句、ほとんど誰にも見てもらえないなんて。もう気力も体力もない。あんなに頑張ったのにこんな失望を味わうとは。自分が監督としてダメなのか思ってしまう。そんなことはないとわかっていても」
…。
やってらんねー。
みたいにもなるよね、その気持ちわかります。10年かけて書いた本がほとんど誰にも読まれないときなんて、もうやめよう、って私、本気で思ったもの。
一連のインタビューを読んで、私は思った。
そうか、やめてもいいんだ。これまでしてきたことをやめて、まったく別のことをする人生もありなんだ。あたりまえか。でもあたりまえのことがあたりまえじゃなくなってしまっている状況に陥っているのでは? それがいちばんこわい。
34歳で、世界的に有名な映画監督なのに、そう、あのドランが映画監督引退宣言だよ。やめてもいいんだ。
続けていればいい、ってわけじゃない。
創造にたずさわる多くの人たちは、もうイヤ、つかれた、やめたい、もう表現することはない、出しつくした、って状態になっても、家族を養うためとか、多くの従業員に対する責任だとかで、やめるという選択肢がない状態にある。
ドランの場合は、そこが自由だった、ということだろう。たとえば、最近マリー・クワントやイヴ・サンローランといったファッションデザイナーたちの人生にふれたのだけど、彼らもぜったい、もういいや、と思った時期が早いうちにあった、と私は見ている。けれど彼らにはやめることが許されなかった。組織というものがあり、自分の言動が個人のものではなくなっていたからだ。
その点、ドランは自由だった、その自由を彼は知っていた。自由を彼は使った。それが今回の引退宣言なのだろう。
ドラン・ショックを引きずったまま、半年ぶりに、大好きな人と会った。そこでなされた会話があまりにも刺激的で、ドランの話もして、うちのめされたようなショックからはすこし立ち直ったかんじ。
あの午後のひとときのことも書きとめておきたいな、と思っている。
*ドランについての記事、興味ある方はこちらもどうぞ。2020年秋の記事です。