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◾️ジェーン・バーキンの死と追悼のタンゴ

2023/09/11

 

 

 ジェーンが死んじゃった。

 親しい友人にラインをしたのは、7月16日が終わる夜のことだった。
 日曜日で、私は、ひとりベッドでワインを飲んでいた。さびしさとあきらめのなか、悲嘆とは遠いなにか静かな場所にいる、そんなかんじで、いつもようにワインを飲んでいた。

 アルコールがまわってきたころ、めずらしい人からメッセージが届いた。なにかのお知らせかな、とメッセージを開いたら、ジェーンの訃報だった。

 声が出なかった。胸にずん、という強い衝撃があった。すぐにウエブで検索した。その日は、ジェーンが亡くなったという以外、どんなニュースを見ても、わからなかった。

 その夜私は、朝方まで、ひとりジェーンの最期に添い寝した。ひとり寝が嫌いで、ひとり寝がさびしくて、夜が来ることをおそれていたジェーン。誰かがそばにいたのだろうか、それともひとりきりだったのだろうか。最期に何を思ったのか。いくつもの病気をかかえていて、何度か死を覚悟しなければならない状態になって、それでも生きて、ジェーンのことだから、子どもたちや友人たちの手前、元気になってがんばる、みたいなことを言っていただろうけれど、ほんとうは、もう疲れちゃっていたのではなかったのかな。死んだらセルジュに会える、ケイトに会える、なんて思っていたかな…。

 私がジェーンとどっぷり関わったのは、「ジェーン・バーキンの言葉」を書いていた2017年の終わりから2018年初めにかけてのおよそ半年。

 あとがきにも書いたようにジェーンは「私にとって存命中の人を書いたはじめての人」。

 ジェーンの死は、私にとって、書いた人が亡くなったというはじめての経験だった。

 誰かについての本を書くって、それが短い間だとしても大恋愛をしているような、いや、それ以上かもしれない、私はその人に重なるようにして書くから、その人の人生をまるまる生きているかのような感覚になるから、ジェーンの死があんなに衝撃的だったのは、当然といえば当然のことなのだろう。

 ジェーンを書いていた6年前の、あの日々のこと、ジェーンの人生に涙したり、あたたかな想いをいだいたりしながら、ジェーンとともに過ごしていた日々を想い、ジェーンのコンサートで流した涙が蘇り、あの日々の私自身の苦しみ、ジェーンの苦しみに共鳴した苦しみなんかを思って、だからその夜は眠れなかったのだ。

 ジェーンの歌もしばらく流せなかった。ずるずるっと引きずられて泣きぬれてしまうことがわかっていたから。ジェーン追悼の記事も、いくつかは読んで、最期はひとりきりだったことを知って、胸が切り刻まれたけれど、それ以上は追わなかった。

 私はひとり、ふかい喪失のなかにいたのだった。ふかく愛した人の死を、なかなか受け止められなかった。

 ジェーンの死から9日後の7月25日火曜日、「Switch」という名のミロンガ(タンゴのダンスパーティーみたいなの)に四ツ谷に出かけた。お友だちふたりがDJをしているので、毎回よほどのことがない限り出かけているミロンガだ。

 ジェーンの曲が流れた。その曲でお友だちと踊った。ジェーンが死んだ日から9日目、私はようやくジェーンの死を私のなかに迎えることができた。

 追悼のタンゴ。

 ひとりで追悼するのではない、追悼のタンゴ。

 そんなタンゴを踊る人は、そういないから、私は、そこはとても恵まれているのだと思う。

 ジェーンの歌声につつまれて、寄り添うように、ほとんど動くことなく踊ったタンゴ。周囲が消滅して、ただふたりだけ、そんな時間。

 あの日あの夜の追悼のタンゴ。あんなタンゴがある限り、どんなに嫌なことや萎えることがあっても、私はタンゴを踊り続けるのだろうと思う。

 後日、余韻のなか、ある映画のシーンが浮かんだ。

 マドンナ主演の「エビータ」、アルゼンチンの聖女と称えられたエビータが亡くなったとき、人々がその死を悼んで躍るシーンがある。湿った屋外で、生活のにおいがするなかで、人々がエビータを悼んで躍る。

 私はタンゴをはじめて間もないころに、いくつもの映画のタンゴシーンを収集していたことがあったけれど、このシーンはことのほか強い印象があった。

 時が経って、いまは、私が好きな、私がタンゴの世界にいる理由のひとつが、このシーンにあるように思う。

 パーティーやきらびやかなイベント、もっときらびやかなショーも良いのだろうけれど、そこに私が愛するものはない。人の感情の動きや色彩の奥深さ、相手のそれらを受けとめ合い、表現するということ、刹那のどこまでもふかい関係性。そういうのが私は愛しい。

 

 ジェーン追悼のタンゴを踊ってから3週間後の8月の中旬、ジェーンの次女シャルロット・ゲンズブールが撮ったジェーンのドキュメンタリーを観に出かけた。

 追悼のタンゴがもたらした落ち着きで、取り乱すことなくしずかに映画を観られた。

 シャルロットは、母との関係においてすべきことがある、とずっと思っていて、ようやくドキュメンタリーを撮った。そこで母娘の関係になにかしらのものをもたらしたかった、あるいは自分自身でひとつの区切りをつけたかったのだと思う。

 シャルロットの行動に「彼女はすべきことをし、それは間に合ったのだな」となにか安堵に似た想いをいだいた。同時に、映画には母娘の複雑な関係、交差することのないふたりの想いが、残酷なまでにありありと映し出されていた。娘が母のドキュメンタリーを撮るということをしても、こんなに複雑なままなのだ。どうしようもないものなのだ。私はそのことがせつなくてならなかった。

 

 この映画を観て、ジェーン追悼の記事を書こうと思っていたのに、また日が経って、いまになってしまった。きっかけは編集者さんから送られてきた一枚の写真。アトレ有隣堂新浦安店の風景。こんなにたくさんのジェーンに見つめられたら、書くしかない。

*「エビータ」、好きなシーンは最初の1分弱。

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