◎Tango ブログ「言葉美術館」

▪️母の死

 

 2023年11月14日、母が逝ってしまった。

 17日に通夜、18日に告別式が営まれ、今日は11月30日だから、もう、16日も経過したことになる。ブログに書かなければ、という強迫観念めいたものに覆われながら、それでも書けなかった。

 母のことは大好きだった。大好きだった、と親のことを思えることはひとつのしあわせだと思う。

 おびただしいイメージが次々にあらわれて、私はずっとモヤのなかを歩いているかのように、それでもいましなければならないことだけを見て、なんとか一歩一歩、足を踏み出している、そんなかんじだ。

 2021年の7月のはじめ、肺癌が見つかって、苦しい放射線治療を受け、その結果がよくなくて、当時の病院から冷酷な余命宣告(半年、長くて2年)を受けた母のもとに、夕刻、駆けつけたのが2022年の9月28日。電話が通じなくて、母としてみれば突然玄関に私があらわれたことになり、驚いて、それから両の手で顔を覆ってむせび泣いた。あの夕刻のあの光景は鮮明だ。同じように老いた父とふたり、冷奴、ごはん、ほうれん草のおひたし、あとなんだったかな、あれは絶望の食卓だった。

 私は母の背をなでながら、電車のなかでかきあつめた知識を語り、それはおもに、漢方方面の治療だったけれど、何もしないでいるのは母の気性に合わないと思ったので、そういうのを試していこうよ、と言った。そしてこれも幾冊かの本やネットで得た肺癌についての知識を語った。少しずつ母は落ち着いていった。なにもわからないからこわいんだよね、と言ったら、ほんとうにそう、と答えた。

 あのときの母の背中、そして肩はあまりにも小さくて細くて、私は悲しかった。あのように泣く母を見たのははじめてだった。

 あれから1年と少しの間、温泉旅行に行ったり、大阪での娘のポップアップに来てくれたり、全体的に弱ってきてはいるけれど、それでも日常生活は続けられていた。

 先月、10月20日の金曜日は父がゴルフでいないから、私が母のところに行くことになっていた。けれど、私は風邪をひいてしまっていた。体が動かないほどではなかったけれど、うつすのが心配で、朝、電話をしたらつながらず、LINEを送った。今日は行けない、と。既読がつかない。心配になり始めたおよそ30分後、弟から連絡があり、母がリビングで転んで救急車で病院に向かっていることを知った。大腿骨骨折。けれどコロナを理由に面会はできない。

 遠く離れたところで、祈るしかできない日々が続いた。

 危篤の知らせをうけたのは11月2日。たまたま家にいた娘とふたりで高崎の病院に駆けつけた。「重篤な状態」ゆえ、面会が許されたのだ。

 そこには、別人のように弱っている母がいた。父、弟、そして妹と面会した。ふたりずつしか部屋に入れず、私と娘とで意識が戻ったりなくなったりしている母に呼びかけた。少しずつ鮮明になってきて、ろれつは回らないものの、会話ができた。「元気なおばあちゃんが、こんなになっちゃって」「悔しいよ、転んじゃったんだよ」「まだまだ旅行に行きたいよ」「家に帰りたいよ」そんなことを母は言っていた。

 「重篤な状態」だから面会が許されていたので、私は次の日の11月3日と、5日、6日、病院に行って母と話をした。

 私を認識するたびに、「毎日毎日、東京から、ありがとう」と言った。そのときの表情に、娘である私の仕事の邪魔をしてしまっている自分が悔しい、といういつもの母が見えた。母は健在だ、と感じた。

 6日、母と2人きりになる時間があったので、耳元にiPhoneを置いて「コンチネンタルタンゴ」をかけた。母が好きな、私の胎教音楽でもあったというコンチネンタルタンゴ。

 母の手をとってふたりで踊った。クンパルシータが流れた。母が右手を宙にうかせてリズムをとり、はっきりと言った。「クンパルシータ!」。私はそのとき、思った。この瞬間のことを私は忘れないだろうと、これはくっきりと刻まれる瞬間なのだと。あとから思えばあのとき…という出来事もある。そしてまたそのときにずっしりと「この瞬間はぜったいに忘れない」と確信できる出来事というものも、ある。あれはまさにそういう瞬間だった。

 面会の時間が終わり、帰り際、私は母に言った。「なんとしても家に帰るよ」。母はうん、とうなずいた。

 それまでは、無理をさせることなく、ただ痛みだけからは遠ざけていてあげたい、と思っていたのだけど、そのときの母の様子に私は思った。このひとはまだまだ生きようとしている、ならば、それを全力で応援したい。そして希望をもった。回復して車椅子であっても家に帰ることは、可能かもしれない。

 その後、ふたたび面会が制限された。週に1度、2名のみ、15分。意味不明の病院の決まり事だ。けれどそれは、少し良い状態になってきたことを意味していた。1週間がまんして11月12日の日曜日、父とふたりで面会した。

 その日の母は驚くほどの回復を見せていた。自力で体を起こし、ずっと点滴だけだったのに、お茶を、自分で飲めるまでになっていた。私は驚き、Vサインをする母の写真を弟と妹に送った。「来週からリハビリができると思う」と母は言っていた。私は母の回復が嬉しくてはしゃいでいた。すごいよ、ママ、嬉しいよ、って何度も言ったような気がする。母は「みーちゃん、忙しいのに、来てくれてありがとうね」と何度も言っていた。

 だから翌々日の11月14日、弟から危篤の知らせを受けたときには、ちょっと信じがたかった。その日もたまたま家にいた娘とふたりで新幹線に乗り、高崎駅で軽井沢から来た妹と合流、車に乗せてもらい3人で病院に向かった。

 病院に着き、面会のための書類を書いているとき、ナースステーションのモニターがビービーと鳴った(これはのちに娘から聞いたこと、私は覚えていない)。

 看護師さんに案内されて病室にゆくと、呼吸器をして口を開けた母がいた。息をしている様子がない。私は耳もとで大声で叫んだ。みーちゃん、あーちゃん、ゆめちゃんが来たよー! そのとき、まぶたが動いたように私には見えた。

 私たちはなんとか母を取り戻そうと、大声で叫び続けた。けれど、おそらく、私たちの到着と同時に母は逝ったのだ。

 しばらくしてから医師が来てあやふやな説明をした。もう心臓が動いていなくてね…という言葉に私はとっさに「もう死んでるってことですか」と言った。

 医師はちょっと困ったように微笑んで、そういうことになります、と言った。父とふたりで一度家に戻った弟が来るのを待って、死亡宣告をするとのこと。私たちは弟と父が来るまでの40分間、母の周りで母の死を悲しんでいた。…悲しんでいた、と書くと違うように思える。現実味がまったくなかった。

 死については、いやになるほどにさんざん考えてきた。肉体は物体でしかない、とか、魂は、といった事柄も頭に浮かんだ。けれど、あの瞬間は、母はまだいる、という確信しかなかった。だから私は、母にしか言っていない事柄について、耳もとでないしょ話をした。だから心配しないで、と。

 口を開いた姿を母は嫌うだろうと、顎をおさえて、口を閉じようとしたけれど、難しかった。

 このあたりの記憶にはあいまいなところが多分にある。その後のこともあいまいだ。ご遺体を綺麗にしますからと一度部屋を出されて再び入ったときに顔に白い布がかぶされていてぎょっとしたこと、葬儀屋さんの霊柩車に乗せられて伊勢崎の実家に連れていかれたこと…

 私は殺風景な浴衣みたいな姿を母は嫌うだろうと思って、母が一番好きだった赤いスーツをそばにおいてあげたかった。遺言を探しに母の部屋に行ったとき、赤いスーツがわかりやすいところにかかっていたので、それを持ち帰った。

 その日は遺言は見つからなかった。後日弟が見つけた。ただ、母の机の上と、バッグのなかに8冊のノートがあった。机の上にあるということは読まれることを想定していたよね、と判断してそれを持ち帰った。

 電車のなかで娘は、それらのノートを読んでいた。私は家に帰って、夜中、ひとりでそれらを読んだ。

 克明な闘病の記録、日常のささやかな記録、子どもたち孫たちのことが綴られていた。私たちが母を訪れることがどんなに母を喜ばせていたか、痛いほどに伝わってきて胸がしぼりあげられた。

 日記の最後は2023年8月の中旬、大きなゆれるような字で、「日記かけなくなった 50年も続けていたのにね」とあり、私はふるえた。

 50年! 50年もの間、こんな日記を書いていたなんて私は知らなかった。ノートをかかえて、号泣した。ママ! と泣き叫んだ。

 翌日、告別式のための「故人について」を書かなければならなかった。生い立ち、趣味、みたいなことを箇条書きでもよいのでください、と葬儀屋さんに言われていた。きょうだいにはそれぞれ役割がある。これは私だよね。箇条書きでなんて無理。私は告別式で、母に喜んでもらえるような、簡潔な、母の魅力が伝わるような文章を心がけて、書いた。

 当日それは、涙をさそうためのものに、大きく変えられてしまっていた。司会の人のスタイルがあったのだろう。けれど、司会の人が語ったことには間違いがあり、そのことが悔しかった。このまま読んでください、と私はなぜ言わなかったのだろう。

 ここに、私が記したものを残しておこう。 

***

山口康子のこと

1936年9月14日、伊勢崎市中央町に生まれました。父は森正治(しょうじ)、母はマツ子。5人兄弟の次女です。

伊勢崎市立商業高校を卒業後、東京都の銀座にほど近い佃(つくだ)で働いていたときに、北海道から出てきて築地で働いていた山口幸治(ゆきはる)と出会い、結婚。1965年のことで、結婚式は明治神宮で執り行われました。

翌1966年5月2日に長女路子(みちこ)を聖路加病院で出産、翌1967年、家業である「森米穀店」を継ぐために伊勢崎市中央町に戻ります。同年の11月24日に次女明子(あきこ)、1970年10月に長男の記美雄(きみお)が誕生します。

子どもたちへの愛情はかぎりなく深く、幼いころから現在にいたるまで、子どもたちは母親からの愛情をいっぱいに浴びて育ちました。

康子さん特製の赤飯や具がたっぷり入ったおにぎり、数々のおいしいものを子どもたちに食べさせてくれましたが、なかでも、康子さんが作るお弁当は同級生たちにうらやまられるほどのもので、長男の高校のお弁当コンテストでは優勝したこともあるくらいです。

芽衣(めい)、夢子(ゆめこ)、竜(りゅう)、佳祐(けいすけ)、櫂(かい)、こころ、6人の孫たちを溺愛し、「6人全員が私の誇り」と言っていました。

孫たちもおばあちゃんのことが大好きでした。

危篤の報せに各地から全員がかけつけ、最後の会話をすることができました。病院スタッフの方が「ご家族が多いのですね」と驚いていましたが、ご家族が多いというよりは、康子さんが「会いたい」と思わせる存在だったということの証でした。

大の旅行好きで、子どもたちが成長してからは姉の林清子(はやしきよこ)妹の(橋本基子はしもともとこ)と、そして子どもたち孫たちと、たくさんの国内、海外の旅行を楽しみました。

もっとも印象深いのは念願のパリ旅行で、2017年の春に実現させています。大好きな赤い服を着て、ルーブル美術館、エッフェル塔で、はしゃぐ姿はまるで少女のようでした。

最後の最後まで「車椅子でもいいから、もう一度パリに行きたい」と言っていました。

利発で明るく、いつでもみんなを笑わせることで本人もよろこびを感じる、そんなひとでした。

好奇心旺盛で、流行にも敏感、新しいデパートや施設ができると、誰よりも早く訪れたいと周囲にそれをアピールし、実現させていました。

80代になってからも、スマートフォンを使いこなし、ラインはもちろん、子どもたち孫たちのインスタグラム、フェイスブックをチェックしていました。

50年間ずっとつけていたという日記の最後の1年間は、病との闘いの記録が克明につけられています。そこには最後まであきらめないという決意、もっといろんなところへ行きたい、孫たちの成長をもっと見たいという願い、そしてなにより、愛する者たちへの感謝の言葉であふれていました。

87歳の誕生日を迎えたちょうど2ヶ月後の2023年11月14日、永眠。

***

 告別式、母は赤いスーツを着ていた。亡くなった日、私が母の部屋から持ち帰った赤いスーツは、母の遺言のなかに、あのスーツを着せてください、とあったものだった。還暦のお祝いで子どもたち3人からプレゼントされて、それがとても嬉しかったから、と遺言にはあった。家族葬でお願い、ともあった。喪主の挨拶はだらだらと生い立ちなどを話さないこと、という指示もあった。母らしい。

 前日に娘と姪が塗った「ひめごとネイル」が鮮やかで美しく、母も喜んでいるだろうと思った。

 通夜、告別式を終えて、娘とふたりで帰宅した夜、即席の祭壇をつくった。すべてがデータになってからはプリントした写真がない。だから近年のはないけれど、かきあつめて、飾った。

 毎日お香をたいて、話しかけている。

 そして毎日思う。母が亡くなってから、毎日、思う。通夜や告別式の前からそうだった。こういった行事関係でわからないことはすべて母に聞けばよかった、その母はいない。本が増刷になった、そのことを報告する母はいない、誰よりも喜んでくれたひとだった。旅行できれいなものを見つけた、それを贈る母はいない。ああ、あれはこういう感覚なのだ、と痛感する日々を送っている。

ーー強烈に不在している。

 

 今週の火曜日は久しぶりにタンゴを踊った。ミロンガSwitchに私は赤いドレスを着て行った。その日のテーマは「慈しみはある。哀しみもある。でも、ヤワじゃない」。

 最後の曲は、いつもはラストナンバーとしてはほとんどかかることがない「クンパルシータ」だった。

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