ブログ「言葉美術館」

◆失敗だったことを正視する

2016/06/25

_h_なにもできなかった時期、本だけは読んだ。というより本にすくわれた。こういうときは小説がよくて、物語世界に没頭することでひたすら逃避をはかる。

「母の遺産~新聞小説」(水村美苗)は面白かったけれど、考えたくないことばかりがちりばめられていて、ちょっときつかった。現実と同じかそれ以上にきびしく現実的な世界、みたいなかんじ。

そのなかに、「失敗であったことぐらいは正視して生きるのが人間の尊厳というものではないか」という一文があり、立ち止まった。

人生における失敗ってどんなことがあるのだろう。

「仕事を辞めたこと、辞めなかったこと」「彼と、彼女と別れたこと、別れなかったこと」「ある場所を離れたこと、離れなかったこと」「あのとき我慢したこと、しなかったこと」……。

いろんなしがらみや、そのときどきの状況があり、ひとはいつだって自分が一番したいことを一番にできるわけではない。与えられた数少ない、自分の望みにはほど遠い条件のなかから、やむをえず「最善の」選択をする場面だってある。

だから、いろいろ、しかたがないんですよ。

つとめてそう思うようにしている。

それでも「失敗であったことぐらいは正視して生きるのが人間の尊厳」、この文章が胸にささってしまったのは、しんどいからという理由で、「失敗だったかも」を、見ないように認めないようにしている自分のやり方が美しくないと知っているからだ。

ああうっとうしい(自分が)。うっとうしいけれど自分と別れることはできないから、何かの言葉に、「そんなやり方、美しくない」と指摘されたときには、ちょっと立ち止まって、それを認め、考えて、それからまた歩けばいいかな、と思う。この作業をするのとしないのとの間には、表面的にはまったくわからなくても、魂的には大きな違いがあると思うから。

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