◆伝わるか伝わらないか、それだけ
2016/06/21
インタビュー番組で、ジャズピアニストの上原ひろみさんの言葉をひろった。
高校時代(中学かな?)のクラスメイトたちに演奏したときのエピソード。
演奏といっても、お昼休みに、彼女が弾いているまわりにクラスメイトが集まってきている、みたいな風景。
クラスメイトたちは、音楽の専門家ではないから、その反応は、あまりにも率直。
そのときの体験で、上原ひろみさんは音楽の原点を見た。そのときのことをこんなふうに言っていた。
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そこには、音楽は何かを感じるか感じないか、という残酷に近い判断基準があった。
何かが伝わるか伝わらないか、それだけだった。
何かきた、何か心にきた、っていうことしかない。
そのときのことはそれから続いてゆく音楽人生のなかで、すごく大きな判断基準になっている。
伝わっているか、伝わっていないか。何か感じるか、感じないか。
音楽のジャンルはそれだけということ。
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なにかとても胸にしみる言葉だった。
私も処女作の美術エッセイのなかで、絵を見るということについて、感じるか感じないか、という言葉を使ったから、それに対する共感もあるけれど、やはり、表現をするということについての基本的な、そして絶対的なものがこの言葉のなかにある。
私はふたつのことを想った。
ひとつは、人生の最初のほうで、この真理を体感できるということも、才能なのだろうということ。どんなに長く生きても、わからないひとはいると思う。
そしてもうひとつは、いろんなことの始まりに体感したこと、強烈に感じたことのなかに価値あるものがあるということ。それはその後、どんなに多くのことを経験しようとも、その経験の重量に負けないほどの価値がある、ということ。
そう、再確認しておこう。
感じるか、感じないか。
伝わっているか、伝わっていないか。
これが、すごく大事。