◆言葉の、我慢できない軽々しさ
2016/06/21
須賀敦子「本に読まれて」。「パウル・ツェラン全詩集」全三巻についてのエッセイのなかに、こんな文章がある。
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これらの詩が私をつよくひきつけた大きな理由のひとつを私はツェランの隠喩のすばらしい硬さといったことばで表したいのだが、それは詩をもふくめて、私たちの周囲に氾濫することばの、がまんできない軽々しさ、まずしさの対極にあるものということもできるだろう。
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その詩が好きな理由は「私たちの周囲に氾濫することばの、がまんできない軽々しさ、まずしさの対極にあるもの」だから。
「存在の耐えられない軽さ」みたい。
「周囲に氾濫することばの、がまんできない軽々しさ」って、ひんやりとした意志が感じられて、こういうことを言う須賀敦子をほんとうに好きだと思う。
本来は、すごく慎重に大切に畏れるように使わないといけないはずの言葉が、頻繁に使い捨てみたいに使われていると、私も我慢できない! となる。ときには激しい嫌悪感がつきあげてくる。
ひとつひとつに反応していたら身がもたないよ、と言われることもあるけれど、他の人たちが反応していることに反応していないことも多分、たくさんあるのだろうから、言葉くらい反応していいだろう、と思っている。
素敵だなあ、と思った人が、数個の言葉で物事を語るのを聞いて一人勝手にがっかりする習性は以前からのものだけど、このところその回数が増えているようでしょんぼり。