◆練られた品性
2016/06/21
大切なひとと再びめぐりあえた。
こんな日が来るとは思わなかった、というのではない。生きていればいつかきっと再び会えるとは思っていた。ただ、それがいつなのかはわからなかった。
そして、「めぐりあう」って、道でばったり会ったりするような意味じゃなくて、お互いがお互いを必要とする、そんな意味。
恋愛ではなくて同性の、友。
喧嘩してあわなくなったわけではない。ただ、あえなくなっていた。私側の事情で、そして彼女側の事情で。
私は約束のお店に行くまでの道で、涙が出てきた。いろんな想いがわあっと胸に迫って、いっぱいになって、そして嬉しくて。
5年ぶりの彼女は、5年前とぜんぜん変わっていなくて、5年も会っていないのが嘘みたいに、昨日ごはんたべた続きみたいに、私たちは話をした。
お互いに苛酷な5年間だったということを話した。笑いながら話せることが嬉しい、と言いながらたくさん話をした。
思い返せば、今回の再会のきっかけとなった彼女のからのメールにあった
「ケガレてケガレて わたしはキレイ」
というフレーズ、それに「胸うたれた、泣いた」と私が返し、彼女もこのフレーズに「嗚咽した」とまたまた返してくれたとき、私は、あうときが来たことを確信したように思う。
そして、満たされた時間の後、彼女からのメールにあった言葉がまた、胸をうった。
「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。
この希望は失望に終わることはない」
そして練達(れんたつ)について、「新しい聖書だと練られた品性、とある」と説明してくれていた。
私はこの「練られた品性」に胸がぎゅっとなった。
患難……悩みや苦しみが私に与えられ、もがきながら息も絶え絶えになりながら、すべてを無にしてしまおうという誘惑に抗いながら、私は忍耐を知ったのかな。
忍耐ってすごく自分にないものだと思っているけれど、もしかしたら、すこしだけ知ったかもしれない。
そしてその忍耐が「練られた品性」を生み出すのだとしたら、私はもっと耐えることを知りたい。
だって、「練られた品性」は希望を生み出し、そしてこの希望は失望に終わらない、というのだ。ならば、私は練られた品性を身につけたい。切に願う。
そんなことを考えながら、今日も歩道橋を渡った。冷たい小雨のなか、ある言葉が浮かんだ。
「同じ精神圏にいる芸術家」。
これは敬愛する中田耕治先生の言葉だけれど、芸術家とはいわなくても、私と彼女はたしかに同じ精神圏にいるんだ、と思った。
生きててくれてありがとう、と彼女は言ってくれた。私も彼女に同じ想いを伝えた。
私はひとりになってから、しみじみとその言葉をかみしめた。これが、軽い言葉ではなく、ずっしりと重たい言葉であることを二人とも知っていたと思う。
*注:ケガレてケガレて わたしはキレイ。これは松尾スズキ主宰の大人計画の舞台、「キレイ」という劇で歌われる最後の歌の最後の歌詞だそうです。