ブログ「言葉美術館」

◆山口小夜子展で得たこと

2016/06/21

Say_東京都現代美術館を久しぶりに訪れた。

私はへなちょこだから、この美術館が果てしなく遠いところに思えるのだが、その日は暑い日で、とても遠く感じた。

路子サロンで、「ミューズ」の話から山口小夜子のことがあがって、それで出かけようと思った。「山口小夜子 未来を着る人」。

展覧会で思ったことのひとつは、生きている間に、一度でいいから、お会いしたかった、ということ。

パフォーマーとしての山口小夜子を、この目で実際に観たかったということ。

写真は古びてゆくものとまったく古びてゆかないものがある、ということ。

セルジュ・ルタンスはやはり素晴らしい、私は彼のクリエイションが大好き、ということ。

山口小夜子の朗読はとても耳に心地よいということ。

私より少し前にこの展覧会を観てきたというお友達から、山口小夜子が寺山修司の短歌を朗読していて、その短歌が胸に残った、というメールをもらっていた。だから、私は会場でそれを聞いたとき、ああ、これだ、と思った。

「マッチ擦る つかのま海に 霧深し 身捨つるほどの 祖国はありや」

私はそのお友達と「信じる」ということについて話をしていて、その流れで彼女は、見当違いかもしれないけれど、信じるということを考えさせられた、とメールに書いてくれたのだった。

寺山修司の言葉で、残ったものがほかにもあった。ちゃんとメモしていないから正確ではないけれど、

闇が光の欠乏している状態ならば 光もまた闇の欠乏している状態

そんなような言葉だった。

私はこれにはっとした。そうか、光もまた闇が欠乏している状態なんだ。と、なにか深く胸にしみこむものがあった。

うまくは説明できない。けれど、暗闇を悲観するな、暗闇に絶望するな、暗闇を否定するな、否定しなくていい、そんなことを知らされたように思った。

その展覧会であらわれた山口小夜子の存在感は絶対的だった。絶対的で、けれど強烈すぎて私にはそれをうまく受けとめることができなかった。同じように絶対的な存在感でもマリリンの色彩とあまりに違う。比べるのもヘンなのかな、でも、その違いはなんだろう。

そんなことを考えながら、遠い美術館から帰った。

それから、彼女の最期について、あれこれと想像した。57歳。どんなだったのだろう。自分の人生について何を思ったのだろう。そんなことにずっと、とらえられている。

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