◆マティスのミューズ、能動と受動
2016/06/28
ピカソを捨てた唯一の女、フランソワーズ・ジローが書いた本を読んでいる。
フランソワーズは自身が画家なので、絵画論とかそういうこともいっぱい書いてあって、私には難しい。でも、資料としてはとっても重要なので、必死になって取り組んでいる。
そんななか、私がほっと一息つけるのが、ミューズの話題。
マティスの晩年のミューズ、リディアについてフランソワーズはこう言っている。
「リディアはミューズだった。芸術家をたえず挑戦にかりたて、過去の作品を越えたいと思わせる存在である」
この、私が何度も繰り返してきたような言葉に、今回立ち止ったのは、「過去の作品を越えたい」という部分だった。
単なる「傑作」を生み出すのではだめ。過去の作品を越えなくてはいけないのだ。
こういう言葉に反応することで、自分が年齢を重ねていることを実感する。
挑戦したいな。
過去の作品を越える作品を生み出したいな。過去の作品が大したことないのなら、なおさら、それを越える作品を生み出したいな。どうかそのための気力体力を。
そんなふうに思う、梅雨入りした東京、仕事場でひとり。
フランソワーズはリディアについてこんなふうに描写している。
「彼女は能動と受動が結びついた存在だった」。
ときには能動的でありときには受動的であり。
このふたつが絶妙のバランスで存在するとき、とてつもなく魅力的な女性が、あらわれる。
どちらか一方では、ぜんぜんだめ。