◆思いがけない贈り物、奇跡的な一致
2016/06/21
こういう贈り物をもらったのって、いつ以来だろう。
思いがけなくて、しかも、相手からの気持がたくさんつまっていると確信できる贈り物、そんなのをもらったのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。
昨日の夕暮に、荷物が届いて、差出人の名前はもちろん知っていたけれど、その方から何かをいただくという心当たりがなかったから、私はいったいなんだろう、と?マークでいっぱいになりながら梱包をといた。
そして、あらわれたものを見て、なにかうたれたようになり、同封されていた手紙を読んで、しばらく動けなかった。涙があふれてきた。
それは額装された絵であった。それは、書いた人の人柄が勢いよくあらわれた手紙だった。
ささいな縁、ささいな喜びをたいせつにし、その喜びを伝えるという行為を、逡巡しながらもするという、そういう心の動きが感じられる内容の手紙だった。
いまからちょうど4年前に私は、敬愛する中田耕治先生が訳された「お梅さん」という小説についてブログに書いた。
そう、嘘みたいだけれど、ちょうど1年前。いま過去の記事を確認して気づいた。こういう奇跡的な一致にはぞくりとする。
ぜひ4年前の記事↑を読んでいただきたいのだが、そこに書いてあるように、「お梅さん」の装画に、当時中学に入学したばかりだった娘が反応した。
あのときは私の人生が大きく動いていたときで、娘のことをまったく別の角度から気にかけていて、だから、私が好きな本に娘が反応し、そこから生まれた短い会話が宝物のように思えて、だから本についての記事に、そのことも書いたのだと思う。
「お梅さん」が出版された当時から中田先生から、装画を担当した吉永珠子さんのことは聞いていた。
4年が経ち、二カ月くらい前に、珠子さんご本人にお会いする機会があった。
明るくユーモアにあふれて、周囲に笑いがたえない珠子さんのことを私はすぐに好きになった。同時にその内側に彼女がひそやかにかかえている複雑さを見て、そこにも魅かれた。
珠子さんに、私は「お梅さん」の装画をすてきだと思うこと、4年前に娘もこの絵を好きだと言ったことを伝えた。
珠子さんはちょっと照れながら、嬉しい、と言ってくださったように思う。
それから二カ月が経って、贈り物が届いたのだった。
娘が好きだと言った絵を見せたいと思っていたこと、でも自分の絵を送るなんてどうなのだろう、と迷っていたこと、それでも勇気をもって送ること、そういう内容のことが、エスプリに満ちた文章で書かれていた。私へのあたたかな思いやりの言葉もシンプルな言葉で表現してくれていた。
娘は少し遅い帰宅だった。彼女は額装された絵を観てやわらかな歓声をあげた。それから私が差し出した手紙を読んで、ちょっと吐息まじりなかんじで、「すてきなひとだね……」と言った。
まったく同感だった。
「やっぱりこの絵好きだな、お部屋に飾ろう」「だめだよサロンに飾りたい」「そうか、そっちのほうがたくさんの人に見てもらえるね」
というわけで珠子さんの絵は私の仕事場、ときどき路子サロンになる部屋に飾られることに決定。