◆アナイスとビッチ
2017/02/08
路子サロンで、アナイス・ニン研究者の山本豊子先生をお招きして、たっぷりとアナイスに浸った。
膨大なアナイスの日記、翻訳されているのはわずかだから、私は40代以降のアナイスを知ることはできない。
生き方シリーズなんかを書いていていつもぶつかる壁がまたここにも。
原文で読めないこの語学力が絶望的にいやだ。
それで、サロンから日が経っても、参加者の方の質問、その方はいつもユニークな観点から発言してくださるサロンの香辛料みたいな存在なのだけど、彼女が、男性遍歴を重ねるアナイスについて、「ビッチとアナイスの違いって何?」とおっしゃった。
その答えとして明確なものはそのとき提示はされず、ただ、アナイスの相手は芸術家だけであり、かならずその関係には愛があった……そんなかんじで、違いといえばそこでしょうか……ということになった。
けれど、彼女の質問は、実は私がいつも感じていることで、ビッチと私の違いは? 違いがなかったりして、なんて感じていることで、だから、今回はちゃんと答えを導き出したいと思って、ずっと考えていたら、ああ、これかな、ということを思いついた。
アナイスは同時に何人もの男性と肉体的に精神的に関わりをもった。
ビッチだってそう。
でもそこに厳然と存在する違い、それは「思想」なのではないか。
人間の探究、本とか誰かの体験によるものではなく、自分自身を通しての探究。
自己省察、自己探求という目的がそこにあるのだと、自覚しているということ。
私は芸術家を育てるんだという意識が強くあるということ。
客観視できているということ。
そういうことなんじゃないかな。
自分のしていること、その理由を正視して生きる、そしてその責任はすべて負うという覚悟。
「人間の尊厳」という言葉まで浮かぶ、アナイスと男たちとの関わり。
そんなアナイスについて、非難するひとは、多い。
私がどこかでアナイスについて書くと、「不倫、浮気を肯定している」というトンチンカンな非難が飛んでくることがある。
不倫とは。浮気とは。愛とは。結婚とは。貞節とは。
そんな考察など、そこには存在しない。
多くの人の価値観を無批判に受け入れている怠惰さだけがある。
世間一般のモラルというわけのわからないものを振りかざすことに疑問をもたない鈍感さがある。
芸能人の色恋のあれこれを非難する人とよく似ている。
誰かと誰かが、家庭があるのに恋をした。婚外恋愛はモラルに反する。
つば飛ばしながら批判する人々の根底にあるのは、とってもシンプルな感情なのだと、私はいつも思う。
「私は我慢しているのに、なぜあなたは我慢しないの?」
これにつきるのではないかと。
真に自由に生きている人は他人の色恋をけっしてジャッジしない。
ましてや、誰か他の人が決めたモラルなんてものを振りかざしたりしない。
サガンは言っている。
「唯一のモラルは美にあるのです」って。
ああ。きっとアナイスの場合もこれにあてはまる。
アナイスは美しい。
写真は、路子サロンに遠くからいらしてくださった美しきアーティスト、小林可奈さんによる花。