◆私のゼルダ物語
2017/02/08
3月5日、とても素敵な「出逢い」があって、それはカッコつきでわざわざ表現したいくらいのもので、その人は女性で私よりずいぶん年下なんだけど、私が好きな世界を見る目をもっていて、だから私の作品についてもその目で見てくれて、私は彼女との出逢いにとても感謝している。
その彼女から「ぜひ、読んでみてほしい」と勧められたのが、ゼルダ・フィッツジェラルドの唯一の長編小説「ワルツはわたしと」だった。
私はその長編が収められている「ゼルダ・フィッツジェラルド全作品」を購入。黒い箱、白い本、装丁、美しい本だった。
ゼルダについては、フィッツジェラルドの妻で、自身も創作活動をしたけれども、狂気のはて早くに死んでしまった人、くらいの知識しかなくて、私はこれまでにも何度か、ゼルダと向き合うチャンスはあったのかもしれないけれど、深くふれないままだった。
でも、彼女から勧められたら読むしかない。
「ワルツはわたしと」を私は読んだ。
ほとんど一気に読んだ。
胸のざわめきが激しく、読み終えて、私はゼルダに強く共鳴していた。
夫が芸術家であり、そのミューズとしての役割に満足し得なかったひとりの芸術家の魂のあがき。
そのあがきが行動として現れる様子。
そのあがきが行動として現れる様子。
諦めていなくて、表面はどんなに堕落していても魂は諦めていなくて、だから花を、木々を、フォークを、室内装飾を、彼女だけの視点で見つめることをやめない。
その鋭さ。
きっとゼルダと同じ場所で同じものを見ていても、私の目は曇りすぎてしまっていて、ゼルダが見ているものが見えない。
けれど、ゼルダがこう見えた、という言葉にハッとする、そのくらいの何かはまだ残っている。
ゼルダは過去をつらつらと思い起こし、そこに言葉を与えてゆく。
小説としての物語の成功なんか、そこにはない。
たぶん、ゼルダ自身どうでもいいと思っていて、大切なのは、小説としてよくできているか、成功しているか否か、なんていうテクニックの問題などでは、けっして、ない。
ということを明確に差し出して見せてくれる。
私もこういう小説を、やはり死ぬ前に書いておかなければならないのではないか。
私の人生に起こった最大の、あの事件について、私は、ゼルダのように、書きたい。
美しい牢獄での日々のことも書かなければならないのではないか。
書きたい。
そして生存する人々のことを考えて、それが小説にブレーキをかけるようなら、それはまさにアナイスの自己検閲版の日記、矢川澄子が言う「自伝」となるだろう。
それではおそらく、足りない。
私がアナイスの自己検閲版の日記ではなく、無削除版に感動するのは、無削除版のほうが美しく、真実があると思うからだ。
だったらそちらを選ばなければ。
と、たいへんなものを読んでしまったと思っていたところに、
これまた、「出逢い」的な女性からお誘いがあったものだから、驚いた。
「ラスト・フラッパー」、ご一緒しませんか。
彼女は、「写真を見て、路子さんを思い出したものだから」と嬉しいことをおっしゃってくれて、つまり、私が「フラッパー」に反応すると思ってのお誘いではなかった。
このお芝居、大河内直子 演出による霧矢大夢のひとり芝居。赤坂レッドシアター。
情報を見て言葉を失った。
「フラッパー」という言葉に反応し、それから、もしや……とは思ったものの、
「作家スコット・F・フィッツジェラルドの妻、ゼルダの生涯を描いた、米国の劇作家ウィリアム・ルースによる一人芝居シリーズの代表作」とあるのだから。
こういう一致には、ほんとうにぞくぞくする。
私、もう少し深く、ゼルダ・フィッツジェラルドとつきあってみようと思う。
「ワルツはわたしと」、たくさんの言葉を書き留めた。
今日の気分はこれ。
「一度に二種類の単純な人間になるのって、すごく難しい。
自分だけの法をもちたいという人間と、素敵な古いものは全部とっておきたい、愛されたい、安全でいたい、守ってもらいたい、と思っている人間と」