ブログ「言葉美術館」

◆秦早穂子の「パリに生きる女たち」、ルバーブとともに

20160726

「ひとつの人生には、いろいろな道程がある。そのひとこまを垣間みて、性急に判断するのは軽率である。保留の精神をもって、人に対することこそ、わが人生を育ててゆくことになると思う。

 傷ついて苦しんでいる女(ひと)を、しいて解剖することは、私にはできない。それが、甘いとか、思想がないといわれるのならば、喜んで、そのお叱りを受けよう。また、そこに、あきらかに嘘があったとしても、その嘘を含めて考えることも必要な気がする」

 何冊目になるだろう、秦早穂子の本。1978年の刊行。もうずいぶん古びている。ページを開くと、古本の、あのにおいがかなりきつい。

 「パリに生きる女たち」。彼女がパリで出逢った有名無名の女たちについて語ったエッセイ集。裏切らない。いつもそうだ。ひとつひとつに、作家のするどくて優しい視線を感じる。無難な、通り一遍の人物伝などではない、私が好きな「作家の個人的な物語」がそこにある。

 あとがきに、強く共鳴する部分があって、思わず、ダイニングテーブル向かってラインを引いた。

 軽井沢から大量のルバーブが届けられて、3つの大鍋でジャムを作りながら、つまりキッチンに立ちながら読書をしていたものだから。

 冒頭にあげたのが、私が共鳴した部分。
 私の「生き方シリーズ」に対する姿勢と、ひどく似ているような気がして、すごく嬉しかった。

 冒頭の文章には、次の文章が続く。泣きそうになった。

「私たち多くの女は、手さぐりで、迷いつつ、毎日の暮らしのなかで、道をさがしているのだから、もどかしいかぎりだが、長い目でみれば、そんな季節もあるだろう。その季節こそが、また、明日へつながってもゆくのであろう。そして、その明日には、ひとりひとりが対決すべき、老年と死の問題がまっている」

 これを書いたとき、秦早穂子は、47歳。

「どんなに違う社会構造のなかに生きていても、人間の本質のテーマは変わらない。と同時に、社会的土壌がちがうことによって生じる差異にも、はっきり目をむける必要がある。そうでなければ、隣の芝生はいつも緑にみえてしまい、自分の生きる道はひらけてはこない」

 いまの、私へのメッセージかと思った。

 現在の自分の状況に「はっきり目をむけ」て、それを引き受けたうえで、「自分の生きる道」を進まなければ。そうしなければ、不平不満にまみれた人生を歩むことになってしまう。もう私はそういうのは嫌なのだ。

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