◆私のアナイス ブログ「言葉美術館」

◆アナイス、住むべき時に住んだ場所、住んだ家

2017/02/08

20160830

大好きなアナイスについて、同じか、もしかしたら私以上にアナイスのことが好きな方とお話をしていたら、どっぷりアナイスに抱かれたくなって、進めなくちゃいけない原稿はあるけれど、でも、この欲求を我慢したら身体に毒だわ、と言い訳しながら『心やさしき男性を讃えて』(山本豊子訳)を読む。エッセイ、講演録、インタビューなどが集められている、アナイスの肉声が聞こえてくるような本。

今日つよく響いた箇所は、「迷宮を抜けて」というタイトルのインタビューのなか。

インタビュアーが、アナイスがルヴシエンヌの家をとても愛していることにふれ、「住む環境が、人格形成に与える影響は大きいと思いますか?」と質問。それに対するアナイスの答え。

「私達が成長するにつれて自分達の環境を変えていく必要もあるのではないかと、私は思うのです。

ルヴシエンヌの歴史は、ある時期をもって終わったのだと私は思っています。
振り返ってみて感じることは、私は、そこに住むべき時に住んだのだという事です。(略)

私も(変化するということに)正しく駆り立てられるままに、何軒かの家を変わってきました。

ある一定の周期が終わると、その家自体の生命が亡びるのです。」

このインタビューは1974年。アナイスが亡くなる3年前、71歳のとき。パリ郊外、ルヴシエンヌの家には30代の半ばまでいた。

いったい、いつ、アナイスは、「ルヴシエンヌの歴史は、ある時期をもって終わったのだ」と認めたのだろう、それが気になる。いったい、いつ、アナイスは、「その家自体の生命が亡びる」と認めたのだろう、すごく気になる。

だって私は、アナイスのルヴシエンヌと私の軽井沢。ずっと重ねてきているから。

私もいつか、軽井沢の家をこんなふうに思うのだろうか。

なんて、とぼけてはいけない。すこしずつすこしずつ、その変化がわからないくらいにすこしずつ、それでも確実に「過去」になりつつあることを、私は感じている。それは、苦しみからの解放でもあるはずだから、安堵を伴う。
それなのに同時に「過去」になることに、どんな手を使ってでも、抵抗したいという願いもまた、もっている。その理由も知っている。過去の出来事にするには、まだあまりにも、あの日々の象徴としてのあの家には、記憶のぬくもりが、こんなにある。

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