◆リルケがいっぱい。深い答えを求めて。
最初は、映画「メトロで恋して」だった。主人公の父親が息子に、役に立つ本もある、といって差し出す本がリルケの「マルテの手記」。
次はメイ・サートンの日記「回復まで」だった。このブログでも書いたけれど「無限の距離」がキーワードのリルケを引用していた。
その次がマリリン、1960年「マリー・クレール」誌のインタビュー記事だった。
リルケの「若き詩人への手紙」を読まなかったら狂っていただろうと、あの本に救われた、と書いてあった。
この3つのことが続けて起こって、そして昨日お友だちの話に、わりと重要人物的にリルケが登場した。あ、またリルケだ、と思った。
「若き詩人への手紙」をマリリンとリルケへの想いを共有したくて、マリリン気分で再読した。リルケ20代後半から30代前半、まさかの年齢に「絶望しなくてはいけない」と思わされるほどに、リルケの言葉は深い。
そしてこんなに真剣に他者と関わっていることに、同じ人間とは思えない、とため息をつくのは、最近自分が、醜いほどに冷酷なことに気づく体験をしたから。
もちろん私もずいぶんひねくれてきているから、ん?それは違うような、と思う箇所だってある。それでも、なんというか、そこには信じたいものがたくさん、ぴかぴかにきらめいていて、創作というものに関わる人たちなら、きっとどこかしら、胸打たれるのではないかと思う。まぶしい。
私もずいぶん前にこの言葉に打たれ、ノートに大きく書いたものだった。
「月満ちるまで持ちこたえ、それから生む、これがすべてです」
すごく大きく書いたように思う。……出産のときではない、念のため。
今回、私より20歳くらい年下のリルケが書いたこの本から胸に響いた箇所を。
「あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。
それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。
もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。
何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないのかと。
深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい」
私は、こんなふうに書き留めながらも、それでも、告白の中心的な部分から微妙にずれたところで考えている。そのことを自覚している。
そしてマリリンもこの本に救われたんだな、と考えると、またマリリンが好きになる。
……マリリン。リルケとは関係ないけど、私は遅刻ばかりしてみんなを待たせるって責められるけど、私だっていつも待っているのよ、いつだって、待っているの、そんなふうに言っていて、これ、とんちんかんな理屈なんだろうけれど、私にはこのマリリンの言いたいことが痛いほどわかるような、気がする。
いつだって待っている。待ち続けている。ひとつひとつ、手を抜かずに、現在の自分の精一杯で創作をしていたなら、きっと。そんなふうに、待っている。
でも、いつまで待てばいいのだろう。
今日は編集者さんとの電話で、ずいぶん高飛車な物言いをしてしまったような気がして反省している。言い方ってものがあるでしょうと自分が情けなくなる。
10月末の原稿をひとまずあげて、脱力する間もなく、次の仕事へ。これがひと段落したら、少し休みたいな。
休息して、リルケが言うように、私の夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてみたい、私は書かなければならないのかと。