ブログ「言葉美術館」

◆自尊心と初雪と

2016/12/01

 

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 自尊心? そんなのないよ、とっくにずたずたになってゴミ箱のなかだよ。あはははは。と明るく笑って、お友達も笑って、私もまた笑って、笑うって、とってもいいことだって、免疫力を高めるって。ふだん笑うことってあんまりないから、貴重だな、ありがとう。

 そんなことをお友達に言ったことを思い出して、ふと「自尊心」について考えこむ。

 思い立って、このサイトの右上にある検索コーナーで「自尊心」で検索してみる。きっとたくさん出てくるだろうな、と思いながら。そうしたら一つの記事しかヒットせずに驚いた。もともと私は自尊心に無関心だったということか。それとも、あるのが当たり前だから、いちいち書かなかったということか。

 自尊心とは何か。それは私には価値がある、と信じられる心だ。社会的価値ではなく、自分自身が感じるところの価値によって、私には価値がある、と信じられることだ。自分の判断で、それは美しいもの、大切にすべきもの、そう思えるものだ。

 ちょっと前に観た映画『人間の値打ち』のキーワードは「ヒューマン・キャピタル(人的資本)」だった。保険用語なんだって。

 もし、私が誰かの車の下敷きになってぺちゃんこになって死んじゃったとして、賠償金ってどのくらいもらえるのか。それは私の「人的資本」を計算して決められるんだって。私の収入、これから得られたであろう収入予想額、養わなければならない人間の数、そういうもので決められるんだって。誰をどのくらい愛したとか、「生きる」ということについて、どのくらい考えたとか、誰かをどのくらい感動させたとか、そういうのは、当たり前だけど、その計算からは除外される。だから私の賠償金はきっと500円くらい。

 そう、だから、私が言う「自尊心」は、人的資本なるものからは無関係なところに存在する。

 そして、私は、ときおりぐらぐらに揺れながらも、どうにかこうにか自尊心を胸にかかえて、ときおりぐらぐらに揺れながらも、どうにかこうにか生きてきた。近くにいる人たちは誰も私のことを「おまえは無価値な人間だ」とは言わなかった。それはとても恵まれていた環境だと思う。

 どんなに書いても書いても本が出なくて、どんなに書いても書いてもそれが収入に結びつかなかったとき、隣にいた人は、それでも私を価値ある人間だと思ってくれていた。だから私はみじめな気持ちになったことはなかった。卑屈になったこともなかった。いま思えば、それこそが私にとって、本質的に失ってはならないものだった。もし、あのとき、あなたは収入に結びつかないことをしている、とマイナスのことを言われたら、私はそれこそぺちゃんこになっていたと思う。

 そんなことに思いを巡らせると「自尊心」は、わりと脆いものなのかもしれない。注意深く、守ってあげなければならないものなのかもしれない。

 私は無価値だと思わずにいられない空気をすいながら歩いて、それでも、でも、無価値なりに、いまは大切な人を守るためにこれをしなければならない。そう言い聞かせるなかで、次第に私の自尊心は失われたのではなかったか。自己評価が高すぎて疲れていた私が、こんなにあっけないとは。

 慣れは怖い。6年前なら、たっぷり2週間は落ちこむことができたであろう言葉、状況も、それが何度も何度も重なるごとに、無感覚になってくる。こうして人は自尊心を失うのだ。

 どうにもこうにも心身ともに不調で、自堕落を許可しひたすら軽い映画を3本観て過ごす日もある。そんな時間を、「もったいない」と思わないように努力しながら過ごす日もある。そんな日は一日が長い。同じ時間でも、こころの状態によって、こんなにスピードが違う。

 そして今朝は雪が降った。醜い雪だった。

 今日が誕生日の軽井沢の妹から雪の風景の写真が届いた。美しかった。

 軽井沢時代のお友だちからメールが届いた。11月の雪って素敵、とあった。

 何日か前に軽井沢の紳士と電話で話したことを思い出した。

 私は、軽井沢への想いを封印していま生きています。軽井沢を思い出すことがまだつらいです。もうずいぶん軽井沢も変わってしまって、そして私は軽井沢を離れて5年が経ち、ずいぶん過去のような気がします。夏も春も秋も、それほど、だから軽井沢への想いは募らないのです。つらいほうが勝っているので。

 それでも、それでも、初雪だけは別です。
 私は軽井沢の初雪を愛していました。10回、初雪を見ました。12月のころにはうんざりする雪であっても、初雪だけは別でした。だから、そろそろ初雪、という季節になると、なぜ、私は軽井沢にいないのだろう、とそのことを理不尽に思います。せつなくて、たまらなくなります。

 軽井沢の紳士は、だまって、私のつぶやきを聞いてくれていた。

 思い出のなかに入りこむ。

 一番美しかったのは、不動産屋の殿方と仕事を兼ねて別荘地をドライブ中の初雪だった。2004年前後だったように思う。常緑樹がみっちりの別荘地にいきなり、それは降ってきた。大粒の、乾いた雪がブルーグレーの空から、ぽたぽたぽたぽたと、とぎれることなく落ちてくるその様子に、私は、ほんとうに、息をのんだ。美しいものを前にすると、こういうふうに言葉を失うのだと、知った瞬間でもあった。

 自尊心。とっくにずたずたになってゴミ箱のなかだよ。とお友達に言った自尊心。ずたずたになっても、まだそれがあたたかいなら、ゴミ箱から拾おうかな。

 拾うと、またやっかいで、闘いも増えるけれど、それでも、こんなきぶんよりましかな。

『君がくれたグッドライフ』、難病で余命僅かとなった主人公がベルギーで安楽死を選択する。妻と母に見守られて死んでゆく主人公の青年は、妻と母に見守られていても、ひとりで死んでいった。

 ひとり。ひとり。

 ここにきちんと立てば、私の苦しみは軽減されるはず。

 こんなこと書きながらも、ヒルバレーのポップコーンが食べたいな。チーズとキャラメルのミックス。なんて考えたりしている。

 と結ばなければ暗すぎる記事だな、と思えている、だいじょうぶな状態。これも慣れの成果。

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