■自己専念 「独り居の日記」メイ・サートン■
2016/05/22
「ヴァージニア・ウルフの『ある作家の日記』には大いに自己専念はあるかもしれないが、自己憐憫はない。……真実として残るのは、どれでも彼女の本をとりあげたとき、生きているという、より強い意識なしにはただの一ページも読めないことである。芸術が生命を高めるものでなかったら、いったいどんなものであるべきなのだろう?」
私の好きな作家が、私の好きな作家のことを、私と似たように感じていることを発見したときの、高揚がある。
「自己専念」と「自己憐憫」、これはまったく違うのに、しばしば無理解によって誤用される。「自己愛」という言葉もある。私についてまわる言葉の一つ。
自己愛は自己憐憫も含むのだろうか。私は自己愛を否定しないけれど、そこから自己憐憫を差し引いたものとしても、自己愛でありたいと思う。
ときおり、無為に日々を過ごしている感覚に襲われて、自分を責めたくなるとき、思い出すのは次の文章。
「日記の数行も書かず、何も産みだす事を期待しないことが、時々どんなに大切であるかを、私は忘れがちである。自分を限界まで使わなかった日は、害のある、損なわれた、罪深い日であると。
精神(サイキ)に対して私たちのできるもっとも貴重なことは、時折り、それを休ませてやり、遊ばせてやり、光の変化する部屋の中に生かしてやり、何かであろうとつとめることも、なにかをしようとも、いっさいしないことだ」
あとで思えば、あの時期は、必要だったのだ。たしかに、あの無為に感じられた日々にも、自分のなかで、なにかが確実に発酵していたのだ、と思えるのに、その日そのときには、なかなか、「これだって意義ある時間」とは思えない。
これが、そう思えるようになったなら、もっと呼吸が楽にできそうに思えるのに。