ブログ「言葉美術館」

◆誕生日と記念日

 

 18年前の2月17日15時26分に、私は新しい命の声を聞いた。緊急帝王切開になって、看護婦さんに出産の様子をビデオに撮ってもらった。1分くらいの短いものだけど、娘の泣き声と、彼女を差し出されて涙する、よれよれの私の顔は映像に残っている。

 誕生日か来るたびに、ありがとう、って何度でも言いたくなる。

 周囲からは放任なんだか放棄なんだか過保護なんだかよくわからないと言われ、娘に尋ねれば、比較の問題、と言われ、自分では、まったくわからない。できることをしているだけだとしか、それしかわからない。

 ただ、いわゆる親ばかだとは思う。輪廻転生的には人間体験回数は私よりずっと多いね、とかほかにも褒めたり感心ばかりしているから、娘本人から「かなりの親ばかだと思う」と言われている。だって、ほんとにそう思うのだからしかたがない。もちろん日常のアレコレの問題は(かなり)あるけれど。

 もう18歳だって。びっくり。子育て部門が大の苦手で、あんなに「もういやだー」「いつまでこんなのが続くんだ―」「はやく大きくなってくれー」なんて言っていたのが、ついこの間のよう。いつの間にか大きくなっていた。いつの間にか手をつながなくなっていた。いつの間にか「ママ、だっこして」がなくなっていた。いつの間にか、私の真の相談相手になっていた。

 つくづく、坂口安吾のあれは名言だと思う。

 私の子育て部門の座右の銘。

「親がなくても、子が育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ。」(「不良少年とキリスト」より)

 ずっとこれを支えにしてきた。だって、私、こんなんだもん。親らしいことってどういうことかよくわからないし、何が正しくて何が間違っているかってのも、よくわからない。私ってだめだめだめ、私のばかばかばかっ……って泣き叫びながら失踪しないためには、この言葉をつぶやくしかなかった。とくに彼女の思春期に私の身勝手で与えてしまった試練。

 どんな親であっても、子どもは、なんとか育つもの。そう、どんなにひどい親だって、子どもは育つよ、大丈夫大丈夫って。

 ほんとに、この言葉にはすくわれてきたな。

 もっとお子さんのこと、子育てのことなどを書けばいいのに、って何度も言われてきた。「うっかり人生が過ぎてしまいそうなあなたへ」に、一回だけちゃんと書いた。でも、ほかには、ほとんど書いていないと思う。このブログへの登場回数もそんなに多くはないはず。一度、そんなに親しくない、出版に携わる仕事をしているひとから、そこまで書いての作家でしょう、と言われたことがある。小説家なら(そのときはたぶん、「軽井沢夫人」を書いたあたりだった)さらけ出さなくちゃ、と。

 私は、どうしても書かなければならない、書きたいことがあって、そのために必要ならば書くけれど、でもね、そこまでして書きたいことなどはないのです。子どものことや、家族のことを赤裸々に書かなくては作家と言えないなら、作家じゃなくていい。

 文豪と言われる、純文学の人たちが周囲の人たちのことを赤裸々に書いてきたことに、書いた作品に、最近の私は感動しない。結局は自分のために、文学という名のもとに、ほかの人たちの気持ちを犠牲にしている行為だとさえ思っている。

 今日はほんとうに暖かい。18年前のあの日、娘を抱いて退院した日は快晴でポカポカ陽気で、入院したときと季節が変わっていた。春だった。だから私は娘の誕生日が来ると、その日から春なのだと決めている。

 今日は最愛の娘の誕生日。同時に私たちにとっての人生の記念日。ガーベラが好きな彼女のために時間をかけて花を選んだ。

-ブログ「言葉美術館」