ブログ「言葉美術館」

◆きみの「マリリンは」きみに向かって語りかける

2017/02/22

 

 ほんとうなら「マリリン・モンローの言葉」を捧げます、って書きたいくらいの中田先生に本をお送りしたらお手紙をいただいて、至福の時間を過ごしている。私のマリリンは、先生の「マリリン・モンロー論考」から始まった。

 絶妙のタイミングでの手紙だった。本を出したあとの、いつもの、あのへんな落ちこみの、いやーな気配を察知しつつ、でも、そこに安住してもいられない状況だから、放置しておいた。自分を。そうしながら茨木のり子について書かれた本を読んでいたら、あまりにも素晴らしいものだから、あまりにも素晴らしいものにふれたとき特有の、打ちひしがれ感が、本を読み進めるほどに私を襲って、涙目になっていた。

 茨木のり子の仕事に比べたら、あー、私の仕事なんて仕事とも呼べない。

 そんなふうに涙目になっていた。

 心情的にはそんなかんじの夕刻、私はこのサイトのアナイスのカテゴリーの記事を少しずつ増やしてゆこうと、中田耕治先生への手紙の記事を書いてアップした。それから階下に降りて、郵便受けにある先生からの手紙を見つけた。手紙と手紙でややこしいけれど、ほんとうなのだから仕方がない。

 中田先生は、ほんとうにかみさまみたいになんでもわかっていらっしゃる。どうしても記録しておきたい、私を肯定してくれる言葉があるので、ほんの部分だけ。

 ――マリリンが自分の前に立ちふさがるものごとの本質を見ぬくまなざし、そして、いつも自分の身にひきつけて対応してゆく姿。きみでなければ書けない「マリリン」だと思う――

 私は手紙の最初にあったこの言葉だけで、ほんとうに、ふかく安堵した。そして手紙の二枚目のまんなかあたりで、涙があふれてきた。

 ――きみの「マリリン」はときには脆さや儚さを見せてはいるけれど、いつもいきいきとしている。ヘンないいかたになるかもしれないが、きみの「マリリン」はきみにむかって語りかける。「この本のなかで、ほんとうに描けているのは誰だと思う。あなたとあたしよ。あたしたちふたりだけなのよ」きみの「マリリン」はきみにむかってそう語りかけている――

 ……いったいこの涙はなんだろう。理解してくれるひとがいることへの安心感かな。でも、これは理解を超えている……。見抜かれているかんじ、いえいえ、それ以上、自分でもわからないでいることを教えてもらっているかんじ……

 私は、先生からこういう言葉をいただくたびに、私を支える大きな、とーっても大きな存在を確認する。

 もっとよい仕事をしよう。もっともっとよい仕事をして、先生に褒めてもらいたい。先生にも喜んでいただきたい。そんな気持ちがわきあがってくる。

 どうかこういう気持ちが持続しますように。

 

 今日は娘の一年にわたる挑戦が終わった日。私はなんにもしていないけれど、凄まじい集中力で毎日を過ごしている彼女のそばにいたから、ちょっとだけ一緒にほっとしている。私の人生のいくつかのテーマのなかで、いっせいに季節が変わろうとしている。

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