■犠牲の蜜 「ポトマック」 ジャン・コクトー■
2016/05/18
「あり得たかもしれないもの、省略されたものの、神秘な美しい重みを君は知っているか?
余白と行間、アルジェモーヌ、そこには犠牲の蜜が流れている」
何年も前に、朝日新聞のコラムで知って、当時発行していたメールマガジンで紹介したことがあった。
このところ、このフレーズが頭をぐるぐる回ることが多く、「ポトマック」を読んだ。
感動したとか、特別な小説だ、とか言えない一冊だけれど、やはり、何箇所かラインを引かねばならない箇所があるのは、コクトーだからだろう。
たとえば、
「君のなかで世間が非難するところのものを、十分に手を入れて育てあげたまえ、それがほかならぬ君なのだから」
という一文。
これなどは、今日はとても胸をつかれた。
コクトーが言うようなそれを、十分に手を入れて育てあげたのは、二十代の半ばからの十年間くらい。
せっせと育てたように思う。
そしてそれ以後は、違う時代がやってきて、世間に非難されることが少ないような言動をとるようになってきて、ときどき不安になるから、大丈夫、外側と内側は別なのだから、内側の自分自身を大切に育て続ければ、自分は枯れないのだと、必死に言い聞かせながらきたけれど、それでは全然大丈夫ではないことに、ここのところ気づき始めている。
人間はそんなに弱くはない、とも思っているけれど、そんなに強くないのも事実なのだ。
少しずつ、外側に内側が浸食されている。
雨の音が懐かしい。ああ、春になりつつあるのだなあ、と思える夜。