■■ルオーの「熱烈な告白」■■
2016/05/18
駒ヶ根高原美術館で、メモした文章が、藤原新也のほかに、もう一つある。
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芸術というものを私がこのように高く評価するのは真の芸術作品には「熱烈な告白」があるからである。
それを「永遠なるものの反映」などと大袈裟には言うまい。
しかし単に表面だけの努力しか見えない者、目の前にあるものの反映またはその多かれ少なかれ正確な模写しか見えない者に対しては彼らをまごつかせるためにそういう言葉を使ってやりたい
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ジョルジュ・ルオーの言葉。
それから三日くらい経って、以前書いたエッセイ(「マグダラの審美眼」)を整理していたら、驚いた。
忘れていたわけではないけれど、頭のなかから消えていた。
清春白樺美術館のルオーについて語った文章のなかで、私は「熱烈な告白」にノックアウトされていた。
ルオーの作品が自分の胸を打つ理由を見たように思い、
「私が人生において、熱烈に告白したいことは何だろう。
そもそも、それはあるのだろうか」
と、自問していた。
同じ言葉に、6年経っても、同じように新鮮に反応している。
私が成長していないということか、それとも、単なる健忘症なのか、それとも、ルオーの言葉が強烈なのか。
とにかく、私は、はっとした。胸打たれた。
このあいだ創った物語に、それはなかったのだと思い知った。
熱烈な告白は冷えた魂からは生まれない。
恥ずかしいほどに熱い魂からしか生まれないのだ。
「熱烈な告白」、しばらくメインテーマです。