■■藤原新也の言葉■■
2016/05/18
「駒ヶ根高原美術館」で、久々に藤原新也にふれた。
「メメント・モリ(死を想え)」
と名づけられた薄暗い個室に、写真と言葉が、ぴったりと、ときどきちぐはぐに、響き合っていた。
***
黄色(きいろ)と呼べば
優しすぎ
黄金色(こがねいろ)と呼べば
艶やかに過ぎる
朽葉色(くちばいろ)と呼べば
人の心が通う
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胸をつくほどの言葉の、もう、美しいというしかない、センスに、意味不明に跪きたくなり、暗い部屋でうずくまって、目をこらして、手帳にこの詩をうつした。
この美術館は、草間弥生、池田満寿夫の作品が充実していて、全体的に美術館が活きているかんじがして、とても好ましかった。
学芸員の方が個として存在しているに違いないと思った。
ところで。
草間弥生の部屋をちょこちょこと動き回る娘に、「このひとの絵、記憶にない?」と尋ねたら(以前、画集を一緒に観たことがあったので)、「くさまやよいでしょ、」とさらりと言った。
その私たちの様子に、私は、「ああ! この一瞬の光景を目撃した人は、私たちのことをどのように思うのだろうか?!」と思った。
「おかあさま、草間弥生の水玉模様の意味するところは、深層心理のうんぬん」
「そうね、彼女が現代の膠着した美術世界に空けた風穴の大きさはね。うんぬん」
といった会話などを想像するのでは、と(しないでしょうか)。
もちろん、そのような会話はしません(できません)。
美術館でも、画集を眺めるにしても、「このなかで、どれが一番好き?」にはじまり、「これが一番好き!」「ふーん」「私はこれ」「ふーん」で終るのでした。