ブログ「言葉美術館」

◆とにかく言葉を安易に扱うな

2017/03/10

 昨日、茨木のり子について書いて、「知命」について書いて、今日は「知命」という題の詩を何度も読み返している。

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知命

他のひとがやってきて
この小包の紐 どうしたら
ほどけるかしらと言う

他のひとがやってきては
こんがらかった糸の束
なんとかしてよ と言う

鋏で切れいと進言するが
肯んじない
仕方なく手伝う もそもそと

生きてるよしみに
こういうのが生きてるってことの
おおよそか それにしてもあんまりな

まきこまれ
ふりまわされ
くたびれはてて

ある日 卒然と悟らされる
もしかしたら たぶんそう
沢山のやさしい手が添えられたのだ

一人で処理してきたと思っている
わたくしの幾つかの結節点にも
今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで

***

 この詩こそは、おそらく、それなりの年月を重ねなければ、実感をもって心に響かないだろうと思う。

 いまよりも若い頃だったら、うん、たぶん、そうなのでしょうね、といったふうに受けとめていただろう。道徳の教科書を読むようなかんじで。お説教を聞いているみたいなかんじで。

 世の中悪いことばかりではない、なんて思いたくなる、大きな喜びの報せを聞いたこんな日には、いままで私に添えられてきた、「沢山のやさしい手」を想い、感謝したくなる。

 でもきっと、嫌な思いをしたり、落ちこんだりすると「やさしい手なんてぜんぜんなかった」とか言うに違いない。情けない。

 茨木のり子の詩にふれていると、森のなかにいるみたいになる。ふらふらと車を走らせて車をとめて、シートに背をあずけて、ぼんやりとしていた、あの軽井沢の森にいるみたいに。しんとしていて自分の存在がくっきりと浮かび上がってくるようで。

 多くの人が望んでいる「成功」というものについて、そして、その儚さについて、よく考えていたな。

 このところ、静かに静かに、生活をしていたいと願っている。静かに静かに多くを望まないで生活をしながら、ほんとうに書きたいこと、伝えたいことを、世の中に出すためにはどうしたらよいのか、考えている。

 出版不況が加速してゆく時代、売れそうな本しか出せない時代。でも、きっと、大多数の人たちに埋もれて姿は見えにくいけれど、私が本当に書きたい、そういう本を待ち望んでいる読者はいる。そういう人たちがいると信じて、書き続けるしかない。日々の生活、書き続ける環境を保つこと、これもまた難しいけれど、先のことをあれこれ思い悩むのは極力なしにして、いま目の前にあるテーマに全力で向き合うしかない。

 なんて、こんなふうに書くとまるでそうできるみたいだけど、できないんだよ。先のことをあれこれ思い悩むのを極力なしにして? そういう力があるなら私は心の底から欲しい。くよくよしてばかり。

 そんな自分にうんざりしながらもしょうがない、引き受けつつ、ときどき、茨木のり子にふれて、ときどき、とにかく言葉を安易に扱うな、と自分を叱咤して、よれよれと、それでも歩き続ける。

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