◆私のアナイス アナイス・ニンという生き方 ブログ「言葉美術館」

◆廃棄の法則とカタルシス

 

アナイスの『インセスト』から言葉を借りる。

<今夜、また私は混乱している。あんまり苦しくて、音楽を聴いているだけで泣けてくる。>

<輪郭をつくったり、刻み込んだり、境界線を引いたり、仕分けしたり、単純化したりという私の努力は、愚かしい。私は多面的に生きるべきなのだ。>

<「ジューンは棄てた。もういらないね。もう、役に立たないからな」。彼に私以外のものが必要になったら、私もこうして棄てられるのだろう。人はみな、行動の法則に、廃棄の法則に支配されている。私には、それがよくわかるし、そうでなくてはと思う。私もまったく同じようなことをしてヒューゴーを苦しめている。だが、生きるものすべての前進過程で、これは避けられないことなのだ。> 

 今日はものすごい自己嫌悪のなかで過ごした。かなり嫌だったのは自己嫌悪のなかに自己憐憫が混ざっていたこと。大嫌いな自己憐憫が。

 都会の大通り、人がたくさんいるなか、泣きながらだだだだだと走りたいという衝動に襲われたのは久しぶりだった。だったらそうすればいいのにできなかった。できなかった、あるいは、しなかった自分に失望し、そしてまた嫌になるという、どこまでも落ちてゆくひな祭り。そんなだから桃の花を飾ることもできなかったけれど、表面上はわりと平然としていて、そんなのも嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だとたくさん言えば、書けば、飽きるかな。飽きればいいのに。

 ここのところ、あれ、もしかしたらなんとなく、私、悪くないかんじで歩けているのでは……

 なんて、思い始めていたのに。やはり落とし穴が。

 でも、そんな状況であっても明日は「少女」たちに言葉の話をすることになっていて、自己嫌悪自己憐憫でけっこう傷ついているわ私、と思いながらも準備のために茨木のり子の『詩のこころを読む』を再読していたら、泣けてきた。この涙は、大通りで流したいと思った涙とは違う種類。

 石垣りん の「くらし」について語っている文章。

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「くらし」が生きものの持つあさましさをテーマにしながら、読み終えたあと一種の爽快さにひたされるのはなぜなのか。おそらくこの詩の中に浄化装置がしこまれていて、読み手がここを通過するさい、浄められて、思いもかけない方角へ送り出されるからだとおもいます。
 浄化作用(カタルシス)を与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分れ目なのです。だから音楽でも美術でも演劇でも、私のきめ手はそれしかありません。
 この本でとりあげた作品は、すべて、それぞれの方式のそれぞれの浄化装置をかくしていて、かなしくなるくらいの快感を与えてくれたものばかりです。」

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 私はやはり、こういう世界で生きてゆきたい。しっかりしてよ私。

 明日は、茨木のり子、新川和江、大庭みな子、与謝野晶子、アナイス・ニンを選んだ。大好きな五人。

 とにかく嘘のない話をしてきたい。これだけ強い自己憐憫入り自己嫌悪状態なら、そう、これだけ衝撃に弱い状態なら、きっと、ふてぶてしさが少なくなって、いいかもしれない。ふてぶてしさだけでなく自信みたいなのもなくなっているから、うまくは話せないかもしれない。だから、嘘なし、それだけを目標にしてみる。

 2017年の3月3日。今日もほかの日と同じ唯一無二の一日。

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