ブログ「言葉美術館」

◆21年後のブルージュ、美の刻印

2017/04/13

 6年ぶりに日本を出た。

 ベルギーのブルージュ、ゲント、ブリュッセル、そしてフランスのシャルトル、オーベル=シュル・オワーズ、パリという10日間の旅だった。突然に決まって、流れに身を任せていたらブルージュにいた、というそんな感覚だった。ベルギー各都市とシャルトルは娘とふたり、パリは母や妹たちと一緒だった。

 受験で出会った世界史の先生に心酔した娘が行きたいと言ったのがブルージュだった。その先生はよほどブルージュを魅力的に話したのだろう。私も娘にブルージュの話をしたことがあるように思うが、人が心にとめるのは、その内容ではなく、誰がそれを言ったかなのだ。

 ブルージュは私にとっても特別だった。そう、このブログ「言葉美術館」にも使っている大好きな画家クノップフの「見捨てられた街」、ローデンバックの『死都ブルージュ』。行きたくて行きたくて、そして実際に訪れたらイメージとのものすごいギャップがあって、失望して、そのことは、当時連載していた「フラウ」のエッセイに書いた。3年間連載したうちの2年目の連載、連載タイトルは「彼女だけの名画」、私が各国で観てきた好きな絵について書いてよいという、いま思い返せばかなり幸せな連載だった。その18回目がクノップフの「見捨てられた街」だった。

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「死んだ、死んでしまった……死の都ブルージュ」。
 詩人ローデンバックの小説『死都ブルージュ』のフィナーレ。
 美しい妻を亡くした男が、永遠の喪に服するために移り住んだ都ブルージュで、亡き妻に生き写しの女と出逢う。彼は女に妻を重ね合わせるが、しかし、彼女は実は妻とは似ても似つかない俗悪な女だった。彼は彼女と亡き妻との間の「類似」と「差異」とに翻弄され、ついには彼女を殺してしまう。
 まさに世紀末文学。全編「死」に貫かれた、霧の中に浮かび上がるガス灯の仄かなゆらめきのような世界に私は魅了された。
 そして、「見捨てられた街」。
 クノップフはローデンバックのこの小説の扉絵を制作しているから、この絵と彼の小説は濃厚な関係にある。

 私がこの絵を初めて見たのは6年前、渋谷の美術館で「クノップフ」展が開催された時のことだ。
 その時の感覚をどう表現したら良いのだろう。彼の儚い美の世界には、ただそこにいるだけで涙が出てきてしまうような、懐かしさと憧れがあった。(略)
 ひんやりとした建物と、右側におもむろに海。それは、淡い色調で描かれた沈黙の世界だった。そして沈黙の中に存在する「孤独」。私は絵からひしひしと伝わってくる「孤独」に共鳴していた。
 いうまでもなく、人は誰しも「孤独」だ。それはどこかで物悲しい事実ではあるけれど、孤独を受け入れることができた時、初めて感じる温もりがある、初めて見えてくる愛が、ある。喧噪の中では感じられない貴重な心音に耳を澄ませ……。一枚の絵、「見捨てられた街」から無限の物語が広がった。
 私にとってのブルージュは、ローデンバックの『死都ブルージュ』であり、クノップフの「見捨てられた街」だった。
 だから、強烈な思い入れを両手いっぱいに抱えて私はブルージュを訪れたのだ。

 季節は夏だった。
 今、思い出しても再び落胆してしまうほど、死都ブルージュは明るかった。
 私の想像とはまるでかけはなれたものだった。そこはすっかり観光地化され、建物の屋根は夏の眩しい光にきらきらと輝き、各国から訪れた観光客で賑わっていたのだ。
 一周りした後、オープンエアのカフェでビールを飲みながら、私は思った。世の中には知らないほうがいい事があるらしいけれど、もしそれが真実だとしたら、こういうことを言うのだろう。
 夏だからだよ、と恋人は言ったけれど、そういう問題ではない。
 時は絶え間なく流れている。ここブルージュも、いつまでも「見捨てられた街」ではない。それは当然のことなのだ。
 流れる時は、愛を破綻させ、ふたりの間に冬の海のような色しか見出せなくなっても、写真の中のふたりは永遠に輝いている。それは美しい季節を生きたふたりが残した「美の刻印」。
 クノップフは「見捨てられた街」という一枚の絵で、彼が美を感じた時期の死都ブルージュに「美の刻印」を押し、それを永遠としたのだ。
 ブリュッセルの王立美術館にこの絵があることは知っていた。けれど私はそれを観なかった。
 死都ブルージュを愛したクノップフが、変わりゆく町を見たくなくてブルージュを通る時には黒いサングラスをしていた、というエピソードを思い出し、それに深く共感したのと、なにより、私は愛していた。
 6年前、あの瞬間に「見捨てられた街」が私の心に刻んだ「美の刻印」を。

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 21年前、29歳のときの文章だ。そのまま転載してみた。あんまり変わっていないように思う。成長がないってことか。

 連載のおまけコラムみたいなコーナーにはブルージュのミニガイドを書いて、そこにはブルージュの鐘楼を仰ぎ見る私の後ろ姿の写真がある。文章中の「恋人」が撮った写真だ。

 この写真を撮ってから21年後、「恋人」との間に生まれた娘とふたりでブルージュにいる。それはとてもミラクルな感覚だった。
 ブルージュはやはり「死都」なんかではなく、美しく整備されたテーマパークのようだった。けれど私はもうショックを受けたりはしない。20年という時間が変えたことのひとつだ。
 それでも、クノップフの黒いサングラスには共鳴する。これは時が経っても変わらないことのひとつだ。 

 私はいろんな場所で黒いサングラスをかける。変わりゆく姿を見たくなくて、いまでも、しょっちゅう黒いサングラスをかける。変わってしまっていることを「知って」いるけれど、それを認めたくなくて、見たくなくて、黒いサングラスをかける。かけまくっている。そうしないとどうにもしようがないから、そうしている。

 ブルージュは18歳の娘にとってはじめての「外国の都市」だった。私はブルージュそのものよりも、はじめて「外国の都市」を歩く娘を見ていたように思う。はじめての瞳に何が映っているのか。何を感じているのか。そんなことを想像しながらブルージュを歩いていたように思う。ふたりでこんなふうに旅行をするのは最後だろうな、と確信しながら、いまこのときを大切にしようと、そんな思いで歩いていたように思う。
 そして21年前の旅行をしばしば思い出していた。夏の夕刻のあのちょっと湿った空気や、あらわになった肩を撫でる手のひらや風。永遠と信じられた、あらゆること。 

 だから、みょうに物悲しくもあった。そういう意味では21年前「恋人」と一緒だったときよりも、今回のブルージュは「見捨てられた街」に近かった。

 21年前にブルージュのことを書いたときにはわからなかった。「美の刻印」にほんきで価値を感じることができるのは、美のなかにいるときだけなのだ、ということが。

 

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