◆魂レベルで美しい話
引き寄せの法則なのか、と言いつつも引き寄せの法則とか知らないんだけど、要するに、私がそうだからそういう人たちを引き寄せているのか、このところ、いやーな人に遭遇する確率が高いように思う。
今回のベルギーとフランスの旅でも、いやーな思いを、わりと多くした。
なかでもふたりの、いやーな人の顔は、くっきりと脳裏に焼きついて離れない。忘れてはいけないことはあっけなく忘れるくせにこのしつこさはどうかと思う。
ひとり目。
ブリュッセル中央駅の国鉄のチケット売り場の男性。
たぶん私と同年代。娘とふたりだった。私たちは隣の南駅まで行きたかった。娘のほうが英語ができるから彼女が窓口に立って、南駅まで2枚、と言った。私はそのかたわらに立っていた。
その男性は、眉間にしわを寄せていた。最初から。なんだか不機嫌そうな人だなあ、とは思った。彼は娘に向かって、何かを早口でまくしたてた。英語だったけど、早口すぎてよくわからなかった。
はじめての海外旅行、いろんなことがあって萎縮中の娘に代わって、ちょっとだけ図々しいハハ登場。すみません、もうちょっとゆっくりしゃべってくださいな、と言ってみる。
すると彼は、私たちふたりをぎろぎろと睨みながら、「おまえら、英語のお勉強をしたのかい? それともフランス語のほうがいいのかい?」と聞いてきた。娘は萎縮継続中。私は、彼をじっと見て言った。「そんなにできないけど、英語でお願いします」。
すると彼は、今度はとーってもゆっくり、それはそれはおーきな声で、あたりに響き渡るような、おーきな声で言ったのだった。「英語? 俺はあんたたちが英語ができるとは、ぜったいに、思えないねえ! あんたたちは英語がで、き、な、い、ん、だ、よ」。
私、あなたに何かしました?
私はひじょうに腹が立ったので日本語で言った。「大きなお世話だよ。とにかくチケットを売ってくださいな」。彼は言った「南駅からどこまで?」私は言った。「南駅まで」。彼はまたしても怒った。「南駅から、どこに行くんだって聞いてんだよ!」私も怒った。「南駅、フィニーッシュ!」なぜか、手刀でカウンタ―を大きく切るようなジェスチャーをしてしまった。
ようやくチケットを手にして、いやーな気持ちになりながら、その場を立ち去った。
私は娘に言った。あそこまでいじわるな人、あんまりいないんだけどね、きっと彼は、今日は人生最悪の日だったんだよ、気の毒だと思おう。いや、思えないね、しね、ってかんじだよね。
ふたり目。
ヴェルサイユの駅のインフォメーションの濃いお化粧のお姉さん。そう、あなたよ、あなた。
何人もの善意の人たちに誤った情報を与えられて、シャルトルまでのチケットを求めて、たらいまわし状態だった私たちは、インフォメーションの窓口に、ほんとうに、すがるような思いで行ったのよ。
そうしてあなたに尋ねたの。「シャルトルに行きたいのですが、チケットはどこで買えますか?」って英語でね。
そうしたら、あなたはマイクに向かって大声で言ったから、構内にあなたの甲高い声が響き渡ったわね。そして、フランス語だったわね。フランス語で、たぶん、あなたはチケット売り場への行き方をまくしたてたのね。ここって、ヴェルサイユ、観光地よね? 観光客が落とすお金でその経済が成り立っているのよね?
もしかして私、あなたに何かした?
私はあなたの前で、悲しそうにぶるんぶるん、って首を五回くらい横にふったわ。そしてそのまま立ち去ったの。
そうして娘に言ったの。彼女はきっと今日、人生最悪の日なのね、気の毒だと思いましょうね。いいえ、思えないわね、ぶすのばか、ってかんじよね。
そしてついこの間。演劇鑑賞へ出かけたときのこと。開演10分前、後方が騒がしい。
どうやら高齢の女性がカートを座席横に置いていたのを、係りの女性に注意されてもめている。通路は役者さんが通るから危険だって、係りの女性は丁寧に説明している。彼女は、とにかく大きなカートをクロークで預かりたい、ただそれだけなのだが、この高齢の女性はひじょうに暴力的だった。なんとか自分の席の前にカートを入れようとする、でも入らない。イライラして係りの女性に怒鳴る。「あなた、年寄りがこんなに一生懸命してるのに、ぼーっと突っ立ってるつもり? 手伝いなさいよう」
それからはもう耳をふさぎたくなるほど。「年寄りがせっかく来てるっていうのに、カートをとりあげるなんてひどいわねえ!」
「このカートのなかには大切なものがたくさん入っているのよ、保障はどうなっているのよ、保障は!」
「お水も出さなきゃ。どこに置けっていうのよ。(ここで、飲食は禁止となっています、と係りの女性)あのねえ!年寄りはねえ、30分に一回は水を飲まないと死んじゃうのよ、殺すつもり?!」
さすがにこのセリフには周囲で、くすくす笑いがおこっていたが、私はほんとうに腹が立ってしかたがなかった。「私は年寄りなのよ、親切にしなさいよ、」っていばる人が私は嫌い。もう少しで暴言を吐くところだった。あぶないところだった。
と、そんな話をお友達にしたのだった。
そうしたらお友達は、こんな話をしてくれた。
ある日の夜遅めの時間。メトロ。非常に混んでいた。ぼんやりとしていると降り損ねるくらいに混んでいた。お友達は吊革につかまって立っていた。荷物は網棚の上に置いていた。降りる駅が近づいてきたので、網棚に手を伸ばし荷物をとった。同時進行で目の前の男性が立ち上がろうとしていた。彼も降りるから、ちょっと焦っていたのだろう。がっしりとした体つきの50代くらいの男性だった。お友達も同年代。お友達はのんびりしていたわけではないのだけれど、焦っている男性からみると、のんびり見えたのかもしれない。男性はお友達のことを、降りるのにお前が邪魔なんだよ、的に思い切り睨んだ。そして、降りる間際にも、もう一度振り返って、ものすごい形相で睨んだ。
お友達も同じ駅で降りた。彼はその男性を追った。そして男性の肩に、抱くようにして手を置いて、言った。
「すみませんでした。僕も悪かったかもしれないけど、センパイ、そんなに怒らないでくださいよ」
にこにこと笑って、軽い口調で言った。
すると肩に手を置かれた男性は、一瞬かたまって、それから言った。「いや、すみません、ちょっと酔っていて……」
そして二人は、どうもどうもと挨拶をして別れた。しばらくして、お友達の肩をとんとんとん、と叩く人がいるので振り返ればさきほどの男性だった。
彼は言った。「ほんとうにすみませんでした、僕が悪かったです」
私はこの話を聞いて、心底、感動してしまった。涙が出そうなほどに。
こういうのを、いやあ、もう人間が違いますからね、とか言うのかもしれない。私にはとてもできない。根本的に、何かが違う。っていうか、その発想すら私にはない。
でもとても感動したから書き残しておこう。魂レベルで美しいから。心が洗われる、って手垢のついた言葉だけど、この話を聞いたときの感覚はまさにそれだったな。
もしこのお友達が私の立場だったら、ブリュッセル中央駅の男性も、ベルサイユの女性も、後ろの席の暴力的な年寄りも、笑顔に変えることができるのかもしれない。
ところで、この話のあとで、お友達が、「きっと彼はあのガタイからしてラグビーをやっていたんだな、だから肩を抱かれてタックルを思い出して仲間意識をもったんだ、空手だったら違ってたな、やられてたな」と自信たっぷりに分析していたので、私はそれは確実に違うと思うよ、と言った。
写真は先日の路子サロン、谷崎潤一郎の会のときに飾った花。「細雪」の四姉妹をイメージして四種類の花を選んだ。まだ美しく咲いている。部屋に花があるだけでこんなに慰められる。昨夜はほとんど眠れなかったけれど大丈夫。だって、眠れなかった理由ははっきりとしているし、解決しようと思えば、たぶん、できるのだから。まずは、現実を直視することから始めなければ。あなたがまだあると信じたいものは、もうないんだよ。って言い聞かせなければ。