ブログ「言葉美術館」

◆何をやっても構わないのに、ってピカソは言う

  

 いつか、ピカソについて一冊の本を書きたいと思ってきた。熱病のようにピカソに夢中になっていた時期もあった。何度かトークイベントで「ピカソとミューズたち」を語り、いろんなところでも書いてきた。
 いま書いている本のなかにピカソを登場させるかは迷った。十人のうちの一人として扱うことに、迷いがあった。
 じつはフリーダ・カーロも同じだった。それぞれに、一冊の本として書いてみたい画家だった。
 でも、いま、書けるとき書いておこうと、だって死んじゃったら書けないし、そんな思いでフリーダを書いた。ピカソも同じ思いで書き始めている。

 ピカソについては、それこそ二十冊くらいの本をもっているように思う。数えてないからわからないんだけど、でも、そんななかでも特別なのが、敬愛する中田耕治先生の本『裸婦は裸婦として 人間ピカソ』。1982年刊行だから私が16歳のときだ。
 ピカソとマリー・テレーズの娘マヤへのインタビューをもとに書かれたピカソの伝記。

 でも、これって伝記なのかな。中田耕治だから、濃厚な彼の香りに包まれていて、伝記とは違うように思う。

 素晴らしい本を読んでしまうと書く気力がなくなるから躊躇したけれど、やっぱり読み返した。そして案の定、圧倒された。

 だいたい出逢いのシーンを描くのだって、こうなんですよ。フランソワーズ・ジローとピカソの出逢いのところなんだけど、

「これもまた運命(ファティマ)にほかならなかった。愛という、人間たちのやさしい法則につらぬかれた運命。」

って。

「運命の出逢いだった」

で終わらせてしまったりはしない。

 過去の恋人ジュヌヴィエーヴとの再会シーン。ピカソがジュヌヴィエーヴの詩を褒める、ジュヌヴィエーヴは感動し、泣きだしそうになる。ピカソは彼女の頭を両手で抱いて髪を優しく撫でつけた、という描写のあと、こうくる。

「かつての日々、性という磁場にお互いに投げ込まれた男と女だけに通い合う優しさだった。」

 すべてがそう。だから読むのに時間がかかる。飛ばし読み不可。

 今回はこの部分にすくわれた。

「マヤは、私に語ったことがある。ピカソに関して逸話はいくらでも語れる。しかし、ピカソの内面生活について語ることはできないだろう、と。私もまた、基本的に、マヤと同じ考えをもっている。ピカソについて、さまざまな人がさまざまなことを書いている。それぞれがおもしろく、感じるところが多いのだが、所詮、それは他人の眼に映ったピカソにすぎない、と。」

 すべてが他人の眼に映ったピカソにすぎない、内面を語るなんてできない。

 そうなの。だから私は私のピカソを書く。私が感じるピカソ、私の目が見るピカソを。それを書けばいいの。

 そう思ってすこし肩の力が抜けた。

 中田耕治先生がこの本を書いたのは、五十四歳のとき。いまの私とあんまり変わらない。好きな作家の影響を受けつつ、自分だけの文体を練り上げ、自分だけの色彩、声をもつことの難しさは、年々深まるばかり。……ああ。

 最後にピカソの言葉を。

「私たちはいつも同じことをしている。何をやっても構わないのに。なにがそれを妨げているのか。」

 何がそれを妨げているのでしょうね。私はいま、いままでとまったく違う世界に身をおいてみたい欲望を、自分のなかに感じている。

-ブログ「言葉美術館」