◆ブルーモーメント
美しい藍色の空を見た。
藍じゃないかな、蒼かな。深い青、それとも……。言葉が見つからなくてもどかしい。
息がとまるほどに澄んでいて深くて、ほんとうに美しいとしか言いようのないブルーだった。
その日私は不眠が重なっていて身体はよれよれの状態だったけれど、ずいぶん年下の写真家の友人の個展、最終日だったから表参道まで出かけた。なつかしくかわいい人たちと再会して、新しい出会いもあり、一緒に行ったお友達と食事をするために、すこし風が強い夜のはじまりの街を歩いた。マックイーンのセカンドラインのお気に入りのワンピースにアクセサリーはつけたくなかったから、なしで、ヒールもいやでフラットなエナメルを履いていた。バッグもエナメルの、色はワインレッド。なぜファッションのことまで書くかといえば、その瞬間の自分を記録しておきたいから。
お友達と仕事の進み具合や、一緒にしたいイベントのことなどを話しながら歩いていて、信号が赤だったから交差点で足を止めた。ふいうちのように、美しいブルーが目に飛びこんできた。なんてもんじゃない。からだじゅうをいっぱいに満たした。
私、もう、どうしていいかわからなくなった。
奇跡的な体験だった。
少し落ち着いてから、ほんとうに美しいものを見ると、そうだ、こんなふうになるんだった、って思い出した。じつに久しぶりに。
中山可穂のエッセイ『熱帯感傷旅行』にあったな。失恋後、ひとりで訪れた外国で美しい景色を目にして思う。
「なぜわたしはこんなところで、ひとりっきりで、こんなにも美しいものを見なければならないのか?」
ひとりでいる時間も好きだけれど、とびきり美しいものだけはひとりで見たくない。
美しいものを見たとき、誰とそれを共有したいか、って命くらいに大切なこと。
ずっと前から思っているし、いろんなところで書いていることを、私はずっと忘れていたような気がする。
ブルーモーメントっていうんだって。
良く晴れた日の夕焼け後、日没までの数分間だけ美しいブルーの空が見られる、そんな時間を。夜明け前の、そんな時間を。
夜明けのブル―は小説『女神 ミューズ』のラストシーンで重要だった。
***
小窓が明るく染まり始めていた。朝がくる。私はしんとした眼差しで、窓の外を眺めた。
モンパルナスの街が、色を変えてゆく。深いブルーから、やがて濃く鮮やかなブルーへと。感動的な色彩というものがあるならこの色以外にない、と思えるほどに、それはあまりにも美しく、両の手を広げて飛び込みたいほどだった。
私はその色彩に安堵した。私の選択は間違っていないと、大きく肯定されたかのようで、深く安堵した。
シャツの袖で涙をふいて立ち上がった。小窓を開けると、刺すような冷気が飛び込んでくる。深く深く息をして、美しいブルーを体いっぱいに満たした。
そして、あの音が聞こえた。恍惚の、愛しい、シャッター音。
***
夜明けのブルー、その美しさは、小説の主人公にとって、そして小説そのものにとって、ほんとうに重要だったのだ。
ブルーモーメントは、ほかにもいろんな言い方があって、マジックアワーとも言うらしい。
ああ。だからかな。その夜私はお友達に自分の重要な秘密を話してしまった。話すつもりなどなかったのに。ブルーモーメントマジック? いや、数日前に観た『花様年華』の影響かも。
秘密。
森の中の大木の幹に穴をあけて、その穴に秘密をささやく。そして、その穴を土でふさぐ。トニーレオンがやってた。
私は自分の秘密をこれから少しずつ、秘密でなくしていかないといけない。作家として生き続けるなら、いつかきちんとそれと対峙しないといけない。
そんなふうに、落ち着いた気持ちで思えている、かなりめずらしいことだ。
写真はトルコキキョウ。そして、お気に入りの大切なブルーのノートブック2冊。