ブログ「言葉美術館」

■■■毬谷友子■■■

2017/05/26

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                                                          photo:MARI

■「いさかい」の毬谷友子■(2008年10月21日)

 

10年以上も前に、一人芝居『弥々(やや)』で、強烈な衝撃を受けてから、毬谷友子は特別な女優となっている。毬谷友子さん、ではなく毬谷友子とするのは、私なりの敬称。シャネルさんとかピカソさん、とは呼ばないのと一緒。

都営新宿線の森下駅から歩いて5分、ベニサンピットという劇場で「いさかい」を観て来た。
マリヴォー原作で、
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恋愛における「不実」は、男から生れるのか女から生れるのか、その永遠の問いに決着をつけるべく、無邪気で残酷な実験が、今、始まる

スタイリッシュなセッティング、ごく限られた客席で、恋愛の原点に潜む凶暴なエゴが暴かれます
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すごくそそられて、しかも毬谷友子。観に行かないわけにはいかなかった。

そしてやはり毬谷友子は凄かった、凄まじかった。才能の化身が動いているようだった。映画ではなく芝居……瞬間の芸術に圧倒された90分だった。

 

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■『弥々』の毬谷友子■(2009年11月5日)

 

パソコンに向かって、「書けるかな」と思いながら、キーをたたいている。

毬谷友子の『弥々』を観たのは先週10月28日の水曜日。あれから一週間が経ってようやく「書けるかな」というかんじになった。といっても、まだはっきりとはしていなくて、決定的なある部分は薄ぼんやりしたままだけれど。

はじめて毬谷友子を、『弥々』を知ったのは、20代の後半くらいだったと思う。
あの頃は、しょっちゅう資料を探しに新宿の紀伊国屋書店に行っていて、あの薄暗くて狭い階段の壁に、『弥々』のちらしを見たのだった。なにに惹かれたのだろう、それはよく覚えていないけれど、私は、その日に、ひとり分のチケットを購入した。

そして紀伊国屋ホールで『弥々』を観た。なにを、どのように、ということはまったく覚えていないのだが、ただただ、圧倒され、はげしく感動したことはよく覚えている。くらくらになりながらホールを出て、ひとり新宿の街を歩いた。

それでも、私は「芝居」というジャンルにのめりこむことはなく、毬谷友子のものはすべて、というファンにはならなかった。それでも創作上のベクトルがときおり、そちらに向かった。

たとえば、はげしく敬愛する坂口安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を野田秀樹がミックスして創った「贋作 桜の森の満開の下」という舞台、夜長姫を毬谷友子が演じていた……ということを知り、ネットを隅から隅まで探して、でもDVDはなくて、VHSのテープを入手したり、映画「外科室」に出演していることに感激したり(泉鏡花の「外科室」を私の大好きな物語)。そして昨年は「いさかい」を観にゆき、その才能を目の当たりにした。

その程度なのだが、私のなかでは、特別な、女優。

そして、10月28日。私自身に異変が……。

とあいかわらずオーバーな表現だと揶揄されそうなのだが、毬谷友子が舞台に登場し、『弥々』の物語が始まったら、胸が、なみうつように、動き始めた。
あれ、やだな、こんな序盤から涙が。
と動揺するほどに。そんなかんじだった。

物語の筋は知っているから、涙はきっと物語自体にではない(物語がよくないというわけではない、念のため)。

だから、私の『弥々』に対する視線、姿勢は「正しくない」のかもしれない。

けれど、事実として、およそ100分の物語が終了したとき、私は嗚咽を止めることもできず、毬谷友子の挨拶が終わったとたんに化粧室にかけこんだ。そして水を流しながらハンカチで声を殺しながら泣いた。

こんなことって、いままでにあった?

と自問する。

それよりも。なにより重要なのは、この涙は、この動揺は、この感動はなに?

ということなのだった。

私はあの舞台の、何に、こんなに感応してしまったのか。

そんなふうに考えながら、はっきりとはわからないままに一週間がすぎている。そんな状態。

わからないままに、それでも今の気持ちを書き残しておこうとするならば、やはり、あの舞台、ひとりきりの舞台で『弥々』を演じていた毬谷友子は、とっても「生きている、」というかんじがしたのだった。

「生きるということ」のすべてがあの瞬間にあり、その姿、熱空間に、私は美を見たのだと思う。

こころのそこから信じられるもの。すばらしいと心底思えるもの。それを毬谷友子はもっているのだと思った。それは毬谷友子の父である作家の矢代静一が娘に遺した脚本であり、父が遺した作品に、疑問をひとかけらも感じることなしに、彼女はどこまでもピュアに、てらいもためらいもなく、演じることがこんなに好きなのだという空気をいっぱい身にまとって、そこに存在していた。

「いさかい」のとき、私はこのブログに「才能の化身」という言葉を使った。今回はそれに加えて熱情が、真摯なパッシオンともいうべき熱情が、そこにあった。それは私が信じたい生の形だった。

私がもっとも信じるところの恋愛という形ではなしに、ひとりの人間が、ひとりの人間を、これほどまでに、うつということが、人生には起りうる。そういう意味で、やはり、あれは私にとって特別な芸術作品そのものだったのだ。

いや、もしかしたら……。マグダラのマリア弥々に、私は心うたれたのかもしれない。いつのまにか毬谷友子ではなく、『弥々』そのひとに。と、いまふと思って、せなかがぞくりとした。

***「毬谷友子ひとり語り 弥々」ちらしより抜粋***

「戯曲は文学であるべきだ」と父が言っていたことを思い出します。「ひとり語り 弥々」はそんな父の言葉に対するオマージュです。そして矢代静一の原稿用紙の中に来てくださった皆様に、一対一で弥々と向き合っていただくことができたら、と願いを込めた私の挑戦です。どうか、弥々が皆さまの心の中に何かを残していくことができますように……一人でも多くの方に弥々を知っていただけますように。毬谷友子

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■毬谷友子のシャンソン■(2011年7月18日)

 

6月26日の夕刻、「MARIYA@ CHANSON」と題されたコンサートに出かけた。毬谷友子については、このブログでもなんどか書いてきている。

歌を聴くのははじめてで、しかも私の大好きなシャンソンで、コンサートに行くか行かないか躊躇したのは、すこしこわかったからだ。舞台であれだけのものを感じとってしまっているから、歌でそれが損なわれたどうしよう、という。

そんな心配はするだけばかだった。期待以上なんてものじゃない、それをはるかに超えていた。第一部で7曲、第二部で7曲、計14曲。毬谷友子は14の芝居を演じていた。ひとつひとつに全力を尽くして。そういう歌だった。世界だった。

唇のふるえ、肩のちょっとした動き、まつ毛のながれ、全身で歌のなかの人々の人生を演じていて、私はすっかりはいりこみ、やりきれない人生の悲哀、恋の獰猛さを体感していた。

私はシャンソンはもっぱらピアフ。ほかの方々の歌もときおり聴くけれど、どうしてもピアフの声でしかなじまない。なのに、毬谷友子の「群衆」「アコーディオン弾き」は違った。「アコーディオン弾き」はすごかった! 原詩に近い訳で歌ってくれた「100万本のバラ」もよかった!

私はコンサートの最初から最後までぼろぼろ涙がとまらず、一緒に行ったひとはそんな私を笑ってた。

あんまり感動が強いと、なかなか書けない。だから3週間も経過してしまった。ようやく書きながら、すでに、またあんな体験がしたいと、からだがぶるっとふるえるようなそんな時間をもちたいと、渇望している。

毬谷友子の舞台はいつも私をこんな状態にする。刹那的な香りが濃厚だからだ。だから大好き。

 

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■毬谷友子の『弥々』■(2011年8月13日の記事)

 

8月9日、一日だけの『弥々』、昨年は異様な現象が起こってしまって、あの感覚はまだ生々しいから、この日は、すこし冷静に舞台を観たいと思っていた。

そして最初から昨年のようにはならなかったから、安堵しつつ観賞。けれど後半~ラストで、やっぱりだめだった。ストーリーも熟知している。次にくるセリフだってなんとなくわかる。それなのに、最後であんなに揺さぶられるのは、やっぱりこれは毬谷友子の表現力なんだろうな、と思う。じーん、と涙が出てくるのではない。嗚咽にちかい感じで出てくる。そして、止まらなくなる。そのまま幕が閉じる。

弥々、良寛の初恋のひと。そのひとの一生。ひとりの女の一生。

脚本を書いたのは毬谷友子の父である矢代静一。この作家は「僕のマグダラのマリア」を書きたかったと言う。魔性と聖性をあわせもつ女性をえがきたかったのだと。

今年は矢代静一の13回忌、東日本大地震への義援金活動を熱心に行っている毬谷友子、さまざまな想いをからだに充満させての舞台だったのだろうと想像する。

初演は1992年。もしこの初演が紀伊国屋ホールであったなら、私はこれを観ている。毬谷友子というひとを知らないまま、なにか感じるところがあって、チケットを購入し、ひとりで出かけた。そして彼女の「一人芝居」に圧倒されたのだ。

あれから19年。

今年は嬉しいプレゼントがあった。矢代静一と毬谷友子の弥々についての対談のテキスト! 1996年のときのもの。そのなかで矢代静一は言っている。

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日本語の「ちせい」には三つある。インテリジェンスの知、白痴の痴、幼稚園の稚と。
僕は芸術家にとって、一番大事なのは「稚」だと思うけど、それをこの子は持っている。
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13年前、矢代静一が他界したときの、彼女の喪失感に想いを馳せる暑い土曜日。

 

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■毬谷友子とジョナス・メカス■(2011年12月2日)

 

10月20日、木曜日の夜、ひとりでゲートシティ大崎アトリウムに向かった。毬谷友子のコンサート。「はじめてのフリーコンサート」だという。出入り自由、観覧無料の空間での、弾き語り。ランチタイムと夜の2回公演。

このお知らせをいただいたとき、私は驚いた。フリースペースで彼女がやるの?と。

それでもあのシャンソンを聴けるなら絶対行く、と出かけた。

地下一階のそのスペースは吹き抜けになっていて、近くにはファーストフード店があり、幼い子どもを連れた人たち、イヤホンと携帯電話で自分の世界に入り込んでいるひとたちがいて、二階と近いをむすぶエスカレーターには仕事帰りの人たちの姿が行き来していた。

ほんとは嫌なんじゃないかな、なにかのお付き合いがあって、出演することになったんじゃないかな。私だったら、こういうところでなにかしゃべろ、って言われたら絶対無理!

そんなことを思いながら一番前の席に座った。私は講演会や映画、ライブなどでもたいていは一番後ろに座る。けれど、今回ばかりは、周囲の雑音を耳にするのは耐え難い。

やがて毬谷友子が登場した。瞬間、その場の空気がパリ色になった。

眼を射抜くような真紅と瞳が吸いこまれるような漆黒、ふたつの色だけを身にまとって、彼女がそこにいた。

私は、ああ、こういうひとが女優というにふさわしいんだ、と思った。特別なのだ。隣にいそうな親近感がいいとか、飾らないところがいい、なんていうのは嫌い。特別じゃないと私は嫌。(それにしてもパーフェクトなまでに美しい衣装だった。すばらしいセンス!)

そうしてコンサートが始まった。どんなに周囲が動いても私だけは動かない。そんな意志で臨んだ。いちいち大げさなのはあいかわらず、と自分でつっこみながら。

「アコーディオン弾き」の直前、目が合ったとき、彼女に私の意志が伝わっただろうか。一時間のみごとな舞台だった。途中、彼女は言った。震災後、熱心に活動を続ける彼女は言った。自殺が増える一方の日本に住む彼女は言った。

このような空間で、私の歌を聴きに来たのではなく、なんとなく通りすがっただけでも、私の歌の、なんらかのフレーズで、心が動いて、たとえば死を思いとどまろうとか、そんなふうに思っていただけたら、私がここにある意義がある、と。

てらうことなく、逃げることなく、声を震わせて言った。

私はそのとき、ジョナス・メカスの言葉を思い出した。

巨大な組織によって生み出された戦争、苦難、環境破壊、精神の荒廃に喘ぐ今の世界を救えるものがもし、あるとすれば、それはなんだろう、と自問して、ジョナス・メカスは次のように言っている。

「それはひとりの人間の、個人的な他人に気付かれることもない、内面の活動、小さな個々の努力、そうして成し遂げられる仕事である」

そうなんだ。いま、ここでまさに毬谷友子がしていること、それが大崎のビルのパブリックスペースで、周囲を急ぎ足で行き交う人々がいる、このような場であっても、全身全霊で伝えたいことを伝えようとする、ひとりの人間の活動。こういうことがたぶん、もっとも重要なことなんだ。

泣けてきた夜だった。こんなにも、ひとりの人間の心をふるわせて、人生における重要なことを想わせてくれて、存在意義、じゅうぶんです。

と受け手になると思えるのに、発信する側としてはそう思えないのは欲深さのせい? それとも単なる馬鹿? 

有名になり、飛ぶように本が売れて、その本が翌日は飛ぶように中古として売られて、忙しくなって、百パーセントの力ではないものが世に出て、そういうことを自分では望んでいないのに、ほんとうに届けたい人のものに届けたい、というのが本音なのに。それなのに、ときどき、落ち込むのは、もういいかげんやめにしたい。もちろん数が多ければ、「その可能性」が増えるということはあるけれど。

それでもやっぱり自分だけは誤魔化せないから、いかに自分が満足できる仕事をするかなんだろうな。

大崎のビルを出て、オフィスの匂いのする人々の群れにまざって駅に向かいながら、ぐるぐるといろんなことを考えた。

ジョナス・メカスはこんなことも言っている。

「地球全体が腐敗と放射能の霧に包まれても、そこに詩がある限り人間に対する希望は存続する。これは愚者の願い、こんにちの思想である。わたしは愚か者だ。」

私も詩を創り続けなければ。

 

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■「くるみ割り人形」とたましいの静謐■(2012年2月1日)

 

寺山修司の脚本、毬谷友子が主演。「くるみ割り人形」。

行かないわけにはいかないわ、と出かけてきた吉祥寺。いくつもの表情をもつ毬谷友子の、今回は妖艶さがぐんと際立ってた、とっても私好みのお芝居だった。

途中、思い出しただけでもいつもふるえてしまう「アコーディオン弾き」を、いつものピアノ弾き語りでなく、全身で歌っている彼女を見たとき、この数分だけでも価値がある、と両の手を握りしめた。

芝居は、出演者の方々の芝居にかける熱が満ちていて、感動を誘った。とっても面白かったけれど、たぶん、私に知識がもっとあったならもっと楽しめるだろうな、あたりがちょっと悔しかった。

それでも寺山修司のファンとしては、セリフの一つ一つが、ただそれだけで愛しい。

一番前の席で舞台をほとんど凝視していた。情熱をもつこと、そしてそれを表現するということ。

胸が熱くなった。

私も生が続く限り、それをしたい。とめずらしく決意めいた想いが胸に芽生えた。記念に髪の色を変えて、短く切った。2012年のテーマは静謐。もちろん、行動ではなく、精神の静謐、そこから言葉を生みだしたい。

ここまでの想いを抱かせる力が、そのときその舞台にはあったということだ。驚くべきことだと思う。

 

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■リエゾンの毬谷友子■(2013年3月12日)

 

わりとよい感じで生活ができている状態の、ある平日の夜。渋谷のぬるい空気と動物臭のなかを歩いて「Liaison(リエゾン)」に出かけた。

リエゾン、いい名前だなあ、と最初に訪れた一昨年、そんなふうに思ったお店。書棚にはオーナーさんである殿方の蔵書があり、エリュアールとかサガンとか「香水」とか「マリリン・モンロー論考」とか、ありえないほどに自分の書棚と似ていてびっくりしたこともよく覚えている。

そんなお店で、大好きな毬谷友子のシャンソンが聴ける。とても親密な空間で、私の大好きな歌が聴けるなんて、人生の幸せの瞬間を思う。

「毬谷の部屋 vol.5」。

あらためて、私は毬谷友子という女優が好きだと思った。歌を一曲歌う。そんなんじゃない。彼女は一曲を演じている。軽妙でおちゃめな自虐トークのあと、曲名を言い、前奏が始まる。瞬間、彼女はいなくなる。毬谷友子はいなくなって、あるときはパリの人ごみのなかで男の背を追う女になったり、あるときは、名誉より何より命を大切になさい、と説く女神になったりする。役になりきる瞬間の表情、たたずまいには、いつもいつも、ぞくり、とする。

帰り道、いつもはタクシーに乗ってしまうけれど、余韻を大切にしたくて、ふらふらと街を歩いて、帰った。

なにがこんなに満たされているんだろう、と考えた。なにがこんなに私を泣かせるのだろう、と思った。

きっと、それは好きな人がいるという、そのことが私は嬉しいのだと思った。その人が歌うと言えば、できるだけ歌を聴きに行き、お芝居があれば観に行く。そういう人がいるということが、ひねくれた私にはどんなに希少なことか!

恋愛だってそうだ。好かれる、愛される幸せもあるけれど、好きでいられることの幸せ、愛する人がいることの幸せもある。

玄関を開けると、娘が「楽しかった?」と聞いてきた。私はうなずいて、「まだ余韻が……お話はもうちょっと待って」と言った。それから、天然石のブレスレットをプレゼントした。

毬谷友子さん(←この場合は「さん」をつけないと、なんだか不自然に)が想いをこめてつくられたもので、綺麗な色だったから、娘のために選んだ。ちなみに前回は自分用に黒と透明なものを買った。

そう……。

前回のとき、深い海の底もぐり状態(おちこんでいた)でリエゾンに行って、お隣のかわいらしい女の子もどん底状態で、連絡先を交換して、今回再会できたことも嬉しかった。彼女は私の著作ほとんどすべてと、ブログ、そのほかの記事を全部吸収していて、私よりも私の過去に詳しかった。すごく奇特な方だ!

4月に南青山の曼荼羅でライヴがあるというお知らせは嬉しかった。もういまからこんなに楽しみ。

 

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■曼荼羅の毬谷友子■(2013年4月16日)

毬谷友子、南青山の曼荼羅でライヴ。の情報を得た瞬間、なんてぴったりの場所なんだろう、と思った。そして4月10日の夜を、こころから楽しみに、いろいろ苦しい時期だったけれど、4月10日には確実に、素敵な時間がある、と思ってなんとか息継ぎをしてきた。

なのになのに、その日、体調をがくんと崩してしまった。夕方ぎりぎりまで横になっていた。行けるかな。いや、行かないと。行かないと死んじゃう。だから行く。そんなかんじでよろよろとたどりついた曼荼羅。

毬谷友子のシャンソン、田ノ岡三郎の繊細なアコーディオンの音色とぴったりで、酔いしれた。

舘形比呂一とのからみ(いやらしい表現でごめんなさい、でも、ほんとにそんなかんじだったのです)も、最高だった。

それで、今回は毬谷友子の、いままで気づかなかった魅力を発見した。それは彼女の両性具有的な存在がかもしだす独特の妖気だった。私が好きになるひとは、たいていは、女女女!ってかんじが多いから、意外だった。これは舘形比呂一とのからみがなければわからなかったと思う。ほんとうに、妖艶でクレイジーな世界がそこにあった。

私は、しあわせだった。

トークのとき、ボランティアで美空ひばりの歌を歌ったりして、すごく自分に合っていると思った。今後はレパートリーに美空ひばりや、ちあきなおみを加えて……、と笑いながらおっしゃっていて、私は驚いた。

ちあきなおみ! 大好きなちあきなおみ。

毬谷友子の『夜へ急ぐ人』を聴きたい! ぜったいぴったりだと思う。あの歌を歌えるひとは、日本で二人、ちあきなおみと毬谷友子。私、言いきっちゃう。

脆さと、それを封じ込める意志の力と、ありのままの自分を見せる潔さと、忘我の世界にいるかのように演じることができるひと。そして信じることの美しさを知っているひと。

それが私にとっての毬谷友子。

 

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■「アメリカン・ラプソディ」の毬谷友子■ (2013年10月14日)

やっぱりこのひとはすごい。

休憩をはさんでの二時間、どっぷりとその世界に浸った。

毬谷友子を観に行った「座・高円寺」。

ガーシュイン。私の好きな時代、20世紀前半に活躍したアメリカの作曲家。ロシア出身のユダヤ系移民としてニューヨークに生れた天才は、38歳で脳腫瘍のため急逝する。

舞台はほぼ中央にピアノが置かれ、左右に小さなカウンターテーブルがある。

それぞれのテーブルに斎藤淳演じるヤッシュ・ハイフェッツ(ガーシュインの友人)、そして毬谷友子演じるケイ・スウィフト(ガーシュインの恋人であり、自身も作曲家)、そしてピアノは佐藤允彦。

「アメリカン・ラプソディ」は「ピアノと物語」シリーズの一つのようで、だから、朗読とピアノという、そんなシンプルなスタイルの舞台なのだけど、毬谷友子だからシンプルにはしない。

圧倒的な存在感と、そして、話すときの声とは別人かと思うその深い歌声で、ガーシュインの世界を色濃く表現する。

ガーシュインの短い人生とその思想、表現したかったこと、それらが簡潔かつ選び抜かれた言葉で語られながら、ガーシュインの音楽を堪能できるという、とても私好みの舞台だった。

最後はしずかに終わったのに涙がうるさいくらいに止まらなかった。

パンフレットに談話スタイルで毬谷友子の舞台に対する想いがあった。

タイトルは、私の「ピアノと物語」。

その最後はこんなふうに結ばれている。

「けれども、舞台の空気を支配するのは圧倒的にガーシュインであって、音楽と言葉から、ジョージ・ガーシュインという主人公が舞台に浮かび上がってくる事でしょう。ジョージ・ガーシュインの魂が降りてきているような、その存在を近くに感じられるような、そんな舞台になったらいいなと願っています」

……そんな舞台でした。

私は舞台上、ほとんど毬谷友子から目を離さないんだけれど、今回は視線の片隅に同じように、ずっと彼女を見つめている男性の姿があった。

彼はどんな想いで見つめているのだろう。聞いてみたい衝動がつきあげた。

ひとりで行って、ひとりで観て、ひとりで珈琲を飲んで、舞台をかみしめて、あの奇跡の時間を愛おしんで、そして日常に戻る。

 

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