ブログ「言葉美術館」

■安吾■「自分の生活と作品との関係」 

2017/06/12

創作の匂いのない生活が続くと、創作への飢餓感のようなものに襲われることがある。
そういうとき私は「ああ、まだ大丈夫だな」なんて意味不明な安心感を得る。

机の上に積まれた本を横からじっと眺めて、ページが折られた箇所がない本が重なっているのにがっかりして、でもそのなかに一冊だけ、何箇所も折られている本を見つけて、抜き出した。

坂口安吾の「日本論」だった。

「文章その他」というそっけないタイトルのエッセイのなかで、彼はジッド(安吾はジイドと表記)の言葉をもってきて、自分と作品とのかかわりについて書いている。

ジッドは「小説家が己を知ろうとすることは甚だ危険なことである」と、
「なぜなら小説家が己を見出したなら、彼は全ての観察に己を模倣することになってしまう。
そして自分の通路と限界を知った以上は、それを越すことができなくなる」

だから、

「真の芸術家は彼が制作するときには常に半ば自分自身のことには無意識である」

「彼はただ作品を通してのみ、作品に依ってのみ、作品の後に於いてのみ、己を知るようになるのである」

安吾は「これはホントにそうだと私は思った」と言い、続ける。

「すくなくとも私のような頼りない人間は、自分の作品のあとでのみ、漸く自分の生活が固定する、或いは形態化する、という感が強い」

これは、作品を書くことなしでは、リアルな生活でさえ、それを実感できない、私なりに大きく飛躍させれば、「書くことなしに、彼自身の生はありえない」という、一種悲痛な、しかし誇らしい告白なのではないか。

創作から離れた、しかし「けっして無意味ではない、と自分に言い聞かせるし、おそらくそれは真実である」生活のなかで、鈍っていた感覚がずきんと胸に響いたようで、生きている実感があった。

どんよりとした曇り空さえ美しい。
思いきり寝坊をして、冴えたようなまだ眠っているような感覚のなかで、静かにひとり感動にひたった。

 

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