■サガン■「水彩画のような血」
2017/05/26
「ワンダとも何と多くの役柄を演じてきたことか。分別のある監督と勝手気儘なスター、物静かな夫と不倫の妻、浮気する愛人と家庭的なスター!」
映画監督である主人公は、妻ワンダと、美青年ロマーノを愛している。
有名女優である妻ワンダとの結婚生活(通常私たちが想像するようなものではない)について考えを泳がせたときの彼の心情。
結婚生活において、多くの役柄を演じているのはこの主人公だけではない。
「自らの人生」について意識的に生きている人であれば、たいていは、それが多くはないとしても、少なくとも、いくつかの役柄を演じていると思う。
私自身は、最近とくに強く感じていることだが、その役柄が多ければ多いほど、生きている実感を得ることができるようだ。
ところで、この主人公が自らに問う、次の言葉も印象的だった。
「自分自身を少しも愛さずに、二人の人間を同時に愛することなんてできるだろうか。」
主人公は自らについて、「ぼくの血管の中には血など流れていない、流れているとしても薄くなった血だ、水で薄めたような血、水彩画のような血だ」と認識しているような人間。
それでも、二人をこれほどまでに愛せるということは……、というあたりがポイントになってくるのだけれど、やはり、そう、自分を愛せなければ、相手が一人でも、かなり無理があるし、二人ともなれば、絶対不可能だと、私も思う。
とすれば、自己愛の強い人ほど、他者を愛せる、となる?
とは、私には言えない。
けれど、愛とか情とか、そういうのをもともといっぱい持っている人と、そうでもない人と、けっこう少ない人、というのはあると思う。
だから愛とか情とかそういうものをたくさんもっている人は、それを自分にも注ぐし、他者(惚れた人)にも注ぐのだと。そうせずには、自家中毒を起こしてしまうから、そうしないではいられないのだと。
そのように思うことは、ある。