■安吾■「坂口安吾 百歳の異端児」
2017/06/12
何かにつけてこれを言われ、ああそうだとも、大体おれはジャンルの区別なんか問題にしていないんだと居直りながら、内心、安吾は傷ついていたと思う。
この人、“小説家”以外にわが身を分類したことなど一度たりとなかったろうから」
このような書き方は、惚れていたら、書けない。
私は、坂口安吾とピカソに対する熱烈なラブレター的な本なら書けるかもしれないが、彼らを分析することは、できない。
惚れた男であれば、そのすべてが愛しく見え、愛しく聞こえ、愛しく思えてしまう性質なので、とてもじゃないけど、できない。
この本は、一時期、坂口安吾に強烈な影響を受けた著者が、月日を経て、冷静に安吾文学、安吾の目指したものは何だったのか、について考察
したものだ。
興味深く読み……というのは、私が手放しで大好きな坂口安吾について、批判的な要素がふんだんに入っている本を読んだのは初めてだったから……、つくづく感じたのは、自分とこの著者のような人との決定的な違いだった。
著者は、たぶん、「作品」を評価の対象にする。それを作った人がどんな人であったかということは重要ではない。
文学に限らず、音楽にしても絵画にしても、これはおそらく「芸術」にふれるときの、正しいふれ方だ、と思う。
けれど、私はどうしても、もちろんとっかかりは「作品」だけれど、その「人」に興味がいってしまう。
それを作った「人」に。その人の思想、生き方というものに。
そして、人が欠点というところも含めて激しく共鳴してしまうと、たいへんなことになる。耽溺してしまうのだ。
私は坂口安吾が、ペンを走らせ、原稿用紙の上にとどめた言葉の一言一句が、撫でたくなるほどに、好きだ。
早朝、車のフロントガラスや落葉が凍る季節になった軽井沢で、坂口安吾に対する愛を再確認。