ブログ「言葉美術館」

■■精神的な休養■■

2016/06/27

___3「あなたへ。疲れました。疲労困憊。もう人に会うのが嫌になったので、一人で、二、三日出かけてきます。

どこへ行くかは決めていません。パリを離れることはないと思います。

とくに深刻な事情があるわけではないけれど、私にはどうしても精神的な休養が必要なの。

レジーヌの店はキャンセルしておいて。さもなければ、別の人と行ってもかまわない。できるだけ早く帰ってくるつもりです。あなたにキスを。心配しないでね。飲みすぎに気をつけて。では」

サガンの置き手紙。当時のパートナー宛。

サガンの多くの言葉のなかで、このところ、この置手紙があたまをぐるぐるまわっている。

そのときの彼女の精神状態が手に取るようにわかるような錯覚のなかで、ぐるぐると。

子どももいてパートナーもいて、でも、そのひとたちの面倒を見てくれるひともいて、仕事に専念できる環境で、なんという身勝手な行動!……と言うひともいるだろう。

でも、彼女の仕事が仕事だから、ほら。と、批判しないひともいるだろう。

じゃあ、そういう種類の仕事でなければ、たとえば肉体労働とか、主婦だとか、そういうひとたちには、「とくに深刻な事情があるわけではないけれど精神的な休養が必要なの」は許されないのだろうか。

作家という職業は、それがサガンくらいのひとになれば、なおさら、ある意味自由が認められて、ときどき、「精神的な休養」という名の息抜き、気分転換、自分自身を取り戻す作業というものができる。

でもそうでない種類のひとたちで、「精神的な休養」を切実に望んでいるひとが、どのくらいいるのだろう、ということを考えた。

そういうひとたちは、どんなときに、どのような理由で「疲労困憊」し、周囲の無理解に苦しみ、人生を恐れているのだろうかと、聞いて回りたい衝動が突き上げてきた。

世間は今日から三連休。軽井沢はよく晴れて、風が強い朝。

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