■■無駄な時間なんてない■■
2016/06/30
しずかな孤独のなかで数日を過ごし、いましたいことについて考えを泳がせながら、窓外に目をやれば、乾いた緑が揺れている。
風がすこし強く空は晴れ、昨日の冷たさとはうってかわって暖かな空気が部屋に流れ込んでくる。
くるくると変わる天気は恋をしているときに目にうつる恋人の姿とよく似ている。
実は自分の気持ちの反映でもあるのだけれど、そのときはまったくそのように思えない。
そんなことを考えながらノートを繰る。
ちょっと前のを何冊か出してきてぱらぱらと繰る。詩が目にとまる。
***
「朝をください」
朝をください 夜は彼女へ それでもいいから 朝をください 夢のつづきの抱擁をください 小さな死から目ざめた少女に祝福のキスをください あなたのくちびると肌の温度でわたしの一日をあたためてください そうしたら わたしは大人になって 夜はひとりで眠るから だから 夜は彼女へ それでもいいから あなたの朝をわたしにください
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いっぱい書きたいことがあり、いっぱい作りたい本がある。
と思えるときがある。そんなときは希少なので、忘れないようにノートに書きとめる。
そしていつものように考える。
「死」を想って、もっとも書いておきたいこと、一冊の本として残したいものはどれか。するとあっという間に一番が決まる。
そして今日すべきことも決まる。
とはいえ、このような日は、ほんとうに少ない。
たいていは原稿に追われているか気力をなくしているかふてくされているか妄想してたりして、世の中をひっぱってゆく人たちに、「時間を無駄にしている!」と叱られそうな時間を過ごしている。
でも、私にとって無駄なものなどなにひとつとしてない。
まったりとして、一見なんにもしていないような時間だって無駄ではない。
書けないよだめだよ、と落ち込んでいる時間だって、(そのときはもちろん絶望のどん底だが)、あとから考えれば無駄ではない。
むしろ私にとって無駄なのは……と、ここから先で手が止まってしまった。ここがブログと日記の違うところ。先日、フィガロのバックナンバーを入手し、アナイス・ニンの特集ページをむさぼるように眺めたけれど、そこには「元祖ブロガー」という言葉があって、違和感を覚えた。ブログと日記とは、その目的によって根本的に違うと思う。