■「パパ・ヘミングウエイ」A.E ホッチナー著 中田耕治訳■
2016/06/30
このところ、ヘミングウェイの近辺をさまよっている。
狂乱の時代のモンパルナスからの流れなのだが、そうしたらまたしても敬愛する中田耕治にぶつかって、わあ、と声をあげたくなる。
さて。ヘミングウェイ。こんなことから入門していいものかどうか、と思うのだが、私は彼の四番目にして最後の奥さんメアリとの憎悪関係にとても興味をもった。
「パパ・ヘミングウェイ」(A.E.ホッチナー著 中田耕治訳)に描き出されたこの夫婦の関係は、
「だったらなぜ結婚をしているの?」
と、本気で知りたいほどに、愛がなく、お互いの命をすり減らしていた。
もっともメアリはすり減らしていなかったかもしれない。
そういうのを陰のエネルギーに変えることができるひともいるから。
夫婦間の諍いが頻繁になったころ、そしてヘミングウェイが自殺をするちょっと前あたりにのメアリについて、著者は言う。
「なにしろ気性がはげしいだけに、たとえばカルティエの高価なダイアモンド・イヤリングを欲しがっていたのに、アーネストがおなじカルティエのもっと安いブローチを買ってきたといっては癇癪を起こし(略)」
経験者として言いたくなるのは、こういうのは、いろんな事柄が積み重なって、「癇癪」に至ることが多いので、こういうエピソードだけで判断してはいけない、ということだ。メアリが気の毒。
でも、この言葉はどうか。
最晩年のあるとき、著者にヘミングウェイがこぼした一言。
「あいつと別れられたら、どんなにサバサバするか。しかし、おれも年を食いすぎて、いまさら四度目の離婚となると金が続かない。だいいちメアリのやつ、おれにしがみついてくるだろう」
このセリフはとても寒い。
言ったヘミングウェイも言われたメアリも。
私はつくづく思う。
日替わりメニューの機嫌の持ち主であろうと、世間的な意味からいえば不実であろうと、ある特定のひとに「しがみつく」ような生き方だけはしたくないと。
恋は薄く淡くなり、愛ははじめのころの姿でなくなっても、もしも愛し合った記憶があるならば、そんな瞬間を持った記憶が、「一瞬」でもあるならば、その記憶への最低限の礼節というものがあるはずだ。
私は相手が私から離れたいと思ったなら、言ったなら、その気持ちを尊重してあげられるようなひとでありたいと切望する。
無理かな。
そのときはじたばたするかな、するだろうな。
けれど結果としては、相手の希望をかなえたい。
愛するということは、愛の対象に、そのひとに自由を与えることなのだと、このところは強く思う。
余計な口出しをせずに見逃すこと。
これはサガンが言った言葉だけど、このところはそれが私自身の考えとぴったり重なる。
私が愛したひとには、私といることで、自由を感じてほしい。