■■愛人になりたい■■
2016/06/30
愛人って、とても好きな言葉です」「愛人ってつぶやくとうっとりします」「愛人と呼ばれてみたいです」
そんな発言をしたら、素敵な殿方に「そんなことを言った人ははじめてだ」と言われた。
なので考えてみた。
私はなぜ「愛人」が好きなのか。
まず、愛人という文字そのものが好き。「愛する人」「愛の人」。文句なくいい。
次に世間的な目線で眺めれば、愛人の向こう側には「妻」なる存在の女性がいる。ここで愛人としては、相当な優越感をもつことができる(私の場合)。
つまり、「妻」は法律で保護されている存在であり、愛人は法律で保護されていない。
妻は夫の愛が冷めても、もともと愛情がなくても「妻」として夫のそばにいる権利をもつけれども、愛人は愛が冷めたら、通常はそばにいないものだ。
ということは、愛人と相手とを結びつけるのは愛情のみ。魅力のみ。魅力によって好きな男性を離さない。
どう考えても愛人のほうが、女としては存在が美しい。
ここで、ひとさまのモノをとるなんてっ、という発想が私にはあまりない。誰かが誰かのモノであるというのが、よくわからないし、世の中には恋愛がある、と思うだけだ。
と、ここでふと自己を顧みれば、私は結婚をしていた。
そして法律上は「妻」だった。
夫に愛人が出現したら、どうするだろう(もういるかもしれない、それはわからない。あるいは過去に何度かいたかもしれない、それもわからない)。
悲しいだろうな、夫にとって自分がある種類の魅力を決定的に失ったことが残念だろうな、そういう気持ちはあるだろう。
けれど、けっして感情の矛先を夫の愛人に向けることはないと思う。
いや、もしかしたらそのときになれば、クレイジーになるかもしれないけれど、そのクレイジーの刃を相手の女性に向けることだけは命をかけても自制する。
なんだか、それは、私にとって失ってはならない矜持のように思う。
私は、好きな男性に、別の女性が登場したとき、相手の女性を自身の感情のなかに巻き込む人とは友達になれない。
そこには知性というものがないから嫌だ。
人と人は出逢いを繰り返して生きてゆく。
いくつかの恋愛が生まれるのは当然のことで、そこから派生する痛みを引き受けることもまた、生きることなのだと思う。
かなりかなりかなり、つらいけど。
ようするに私は緊張感のない人、自分自身の魅力というものについて考えることをしない人が嫌いで、そして魂の問題というものをもたない関係性も、たまらなく嫌なのだ。
ここである小説から引用を。
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「夫人さんって、きっと、最高の愛人になれる人なんだろうな」
「まあっ。光栄ですわ。わたくし、王に顧みられない王妃と、王の寵愛を受けるハーレムの女、どちらかを選びなさい、って言われたら、迷わずハーレムの女を選択するわ。慰謝料とか妻の立場とか、そんな保障なんていらないものっ」
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はい。大好きな『軽井沢夫人』第二章からの抜粋でした。
9月24日にはじめて床暖房を入れた。軽井沢ずいぶんと冷えてきた。朝晩は寒い。でも大好きな季節。なにかと忙しく余裕がない毎日だけれど、ご機嫌。