◆ジグソーパズルの決定的なワンピース
ふいうちで、かなしいことがあって、私は、ああ、まだこんなに打ちのめされるんだ、と実感した。
私をこんなにかなしい気持ちにさせることができる人は、世の中に何人もいない。その人のささいな言動で私は、こんなに、こんなに、かなしみに沈むことができる。
恋ではない。じゃあ何なのか。いまは分析すらできない。
そしてそのかなしみの原因をたどってゆけば、結局、自分自身の業と正面衝突する。
もう、ほんとうに嫌になる。
仕事はそこそこ順調なんだと思う。
『ココ・シャネルの言葉』も3刷りとなり、2万部を越えた。締め切り目前の原稿も進んで、気持ちも落ち着いてきている。タンゴもある。そしてさいきんは出逢いがたくさんあって、こんな私のために動いてくださる人が増えてきていて、じーん、としている。
だから、私はいま、わりとよい状態にある、はずなのだ。
けれど。
私はかなしみのなかで、けれど、その人に冷静に言った。
私が欲張りなのかもしれないけれど、でも、自己弁護させてもらえれば、それともちょっと違うと思うの。
たとえば、ジグソーパズルがあるとするでしょ。シャネルの写真のね。(……とここで、私が好きなシャネルの一枚を思い浮かべる)。
そのグレーの背景のどこかのワンピースがなくても、それほど欠落感はないと思うの でも、シャネルの瞳の部分のワンピースがなかったら、それはもう、決定的にだめでしょう。
いまの私は、そんな感じなのだと思うの。でも、それは自分で手放したワンピースなのだから、自分が選択した結果を引き受けて、いま、自分にできることと向かい合って精一杯生きていくしかないのね。
私がこころから愛する人たちが、充実した毎日を過ごし、幸せそうに笑っているのを見ていることが、こんなに、私の心をあたたかくするのだから、もうそれで充分だとも思えるの。これ以上、何を望むのかと。
欠落してるって言ってみたり、充分って言ってみたり、自分がややこしいわ。でも、これがありのままの、いまの私だからしょうがないよ。
帰宅して、しばらく、かなしみと闘って、それから日曜日のシャネルのトークイベントのことを考えた。
シャネルの孤独によりそって。
自由であることにもれなくついてくる孤独について。
孤独であることを感じる時間が少ない生活にもれなくついてくる不自由について。考えた。
原点に、立ちかえってみようかと思った。
『ココ・シャネルという生き方』を出版した8年前、私は、この本の底流に「なぜ、彼女はウエディングドレスを拒んだのか?」という問いを提示した。
本は売れたけれど、残念なことに、この私のテーマについてふれてくれる読者は少なかった。でも私にとっては、ほんとうに重大な問いだったのだ。
そして、いまの私と、この問いは、深く重なる。だから、26日は、そんな話をしたいと、いまは思っている。
ーー私は自分で引いた道をまっすぐに進む。自分が勝手に選んだ道だからこそ、その道の奴隷になる。
シャネルの孤独な、数々の夜を想像して、しっかりしてよ、私、と祈るように自分に平手打ちをする。