■■サガンとメールとシンプルな言葉■■
2016/06/30
『サガンという生き方』が出版されて、周囲に読んでくれる人が増えてきて、取材も含めて何かと問われることが多い時期。
あらためて考えさせられることが多く、たのしい。
たとえば、
「あなたはサガンの作品が好きなのですか、それとも生き方が好きなのですか」
という質問。
小説作品そのものがその人本人であるはずはない、けれどそのなかに本人が息づいていないわけもない。
だから、こういう質問については、白黒はっきりとした答えはでない。
いろんな意味をふくめて選べば作品ということになるけれど。
そして、そのとき思い浮かんだ言葉を使って、自分の気持ちを伝えようとはするけれど。
先日、精神的に近いところにいると私が勝手に感じているフリーライターの女性からメールが届いた。
『サガンという生き方』をお読みになった感想が、つづられていた。
あのメールが届いた夕刻は、私にとって忘れられないひととき。
彼女は感動してくださっていた。
「愛いっぱいの分析、いろんな角度から胸に迫るものがあり、泣けました」
「魂のそばでサガンを感じ、それで魅力的にサガンのことを書かれたっていう、この現実が嬉しくて、わたしはあらためて感動いたしました」
全文は載せたくないから、一部分だけだけど、私はこの一通のメールでこころのそこから思った。
ああ、書いてよかった、と。
もうこれだけでじゅうぶんだ、と。
ひとりのひとが、少し遠い地で、私の作品を理解してくれて、それを書いた私を感じてくれて、しかも感動したと言ってくださっている。
このよろこび。
作家にとって、なにより嬉しいことは作品を読んでもらえることだけれど、こんな感想をいただけたら、言葉はない。久しぶりにメールで泣いた。
メールは、基本的には好きではないけれど、電話が苦手なものだから活用することが多く、今回のようにメールから感動を得ることも多い。
さいきん思うのは、シンプルな言葉のもつ力だ。
私は理屈っぽいからいろんな書き方をしてしまうけれど、それでは伝わらないことのほうが多いのかもしれない。
早朝の気温は10度だった。空は重たい色をしている。
明日は仕事で大阪まで出かけ、夜遅くなるので泊ってくる。ひとり旅が大好きだったりもするのに、明日の夜を思うと寂しい。