ブログ「言葉美術館」

■■彼女たちのエナジーに恥じないものを■■

2016/06/30

101025_100701先週は、非日常週間だったから覚悟はしていたけれど、そしてなんとか日曜日まで身体をもたせたいと思っていたけれど、だめで、でもどうしても娘が楽しみにしていたイベントをキャンセルしたくなくて、強い薬を飲んで出かけた。

「女子美祭」は、それでも行ってよかった。


女子美術大学付属高等学校・中学校の学園祭なのだが、そこには、いっしゅ異様ともいえる熱気があった。

ほほえみをさそうほどに稚拙なものから、これを中学生がつくったのか、と驚くほどの作品まで、さまざまだった。

高校生のものともなれば、お金を払ってまで買いたいと思わせる作品があった。

 
短大のほうでもいくつかのイベントがあった。

そのうちのひとつ、「ファッションパフォーマンスショー」を拝見した。

私はファッション大好きなので、本気で楽しみに開演を待った。

教室を使った狭い会場の床には落ち葉がしきつめられて、その匂いと、足もとの感覚が、そこを異空間にしていた。まずはそこから驚いた。


テーマは「依存共存寄生」。短い文章が添えられている。

でも結局は誰かといる事に変わりはなく 誰かのいる楽しさ 億劫さ それは一生続く


私好みのコピー。


ショーは30分くらいだった。

独創的なファッション、どこかで見たファッション、が、ひかえめな、あるときはとつぜんに激しいパフォーマンスとともに、あらわれる。

プロのモデルではない。(おそらく)創るひとたちがモデルも兼ねている。


私はつぎつぎとあらわれる彼女たちを見ていて、あることに気づき、うたれたように椅子の背にがくりと体重をあずけてしまった。


「私は、確実に、もうこの世代には属していない、上にいる」。


あんた44にもなって何を当たり前のことを言ってんの、と自分でも思う。

けれど、そこにあらわれていた「表現をしたい」という、めちゃくちゃな無謀なそして眩しくてなけてくるほどのエネルギーに、もう、こういう種類のエネルギーを私は持ち合わせていない、という意味で、私はうたれたのだ。

涙があふれてきてしまった。


もう、そういうものを持ち合わせていないのならば、けれど、ぎりぎりのところで、彼女たちのエナジーに恥じないものを私は持ちたい。

そしてそれを使い、表現してゆきたい。


んなふうな時間を、こんなふうに感じられる時間をもたらしてくれた「女子美術大学 ファッションパフォーマンス同好会 merzbank」のみなさん、ありがとうございます。


中高の「文芸部」にも立ち寄らずにはいられなかった。

作品集を買い求め、よぶんにお金を差し上げて「みなさんで何か召し上がって」と言ったら、ちょこんと座っていたその女の子はにっこり笑って「お気持ちだけいただきます」とぺこりと頭を下げた。「ごめんね、余計なことでした。でも、創作、がんばってほしくって、つい」と私もぺこりと頭を下げて部屋を出た。


娘の興奮は、私の何倍ものものだったろう。

まだ私と手をつなぎたがる彼女の手は、なんどか強く私の手を握り締めた。


彼女が作品を眺める。私は彼女の瞳を眺める。そこに光るものを伸ばしてあげたいとつよく思った。伸ばすことを阻みたくないとつよく思った。


彼女は中学一年生の絵画に圧倒されていた。私も驚いて、「レベルがとても高いと思うのは私だけ? どう? こういうなかであなた、どう?」

すると彼女は私を見上げて言った。

大丈夫、成長するんだよ」。

力強い言葉に、私は安堵した。あらゆることがまちがっていない、と思える、貴重な瞬間だった。

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