ブログ「言葉美術館」

◾️変化をおそれてしまう人へ

2018/04/25

 

 娘が大学生になり、6年間続けた「お弁当倶楽部」を退部し、1年が経とうとしている。

 私はすっかり夜型になった。彼女が中学生のころ22時にはベッドに入るようにし、携帯のお休みモードを23時からに設定していたのが嘘のようだ。

 お弁当倶楽部最後の1年は受験が重なり、変身したみたいにがむしゃらに勉強する彼女の姿に私は健康面だけケアしたいと願い、朝食と、お昼と夜のお弁当を二つ、毎日作っていた。変化をつけるのがほんと簡単ではなくて料理はクリエイティブな行為だと実感する日々だった。

 いつだったか、お弁当を作っている、とあまり親しくない人に話したとき、高校生になったらお弁当くらい自分で作るような教育をしなくては、と言われて、めずらしく、そう、私はその種類の話をたいてい流すことにしているのだけど、めずらしく、激しい憤りを覚えた。私がなぜお弁当を作るのか、その理由をあなたに話してあげましょうか、それでも同じことを言いますか、とせまりたくなった。

 どれだけの想いがそこにあることか。家族にしろ、恋愛関係にしろ、それぞれの間にある関係性は本人たちにしかわからず、意識しているにしろ無意識にしろ、理由があって「それ」をしている。

 そんな想像力もない鈍感な人から、土足で私の大切にしていることを汚されたようで、そのことに私は憤ったのだと思う。

 それはそれとして。とにかく、朝4時半に目覚ましをかけるような生活は終わった。

 そして自分のペースで生活をし始めたら夜型になった。遅くまでタンゴを踊るときもあるし、本を読んだり映画を観たり原稿書いたり物思いにふけっていたりすると、夜がぐんぐんふけてゆく。

 そして朝遅く起きる。お昼近くになることもある。

 そんな私に娘がいつだったか言った。「いまの姿を見ていると、かなーりがんばっていたんだなあ、って思うよ」と。

 そこには本来のあなたはそんな生活をしたかったのね、というニュアンスがあったような気がする。昨年もらったバースデイカードに書かれていた愛に満ちた言葉をそのとき思い出した。

 今日は考えがあちらこちらに飛ぶ。書きたいことまでなかなか到達しない。

 私は、お肌に悪くったってなんだって、眠りたいときに眠り、起きたいときに起きる、そんな生活を愛する。そしてそれがようやくできるようになった。時が来たのだと思う。

 そしてこのところは、これから書きたいものについて考え、書くべきものについて考え、書かなければならないものについて考える日々。そのなかにタンゴが織りこまれている。そしてふだんはあまり考えない未来についても考えを泳がせる。でもどんなにそこに飛びこみ泳ごうとしても、なにかが私の足に重くぶらさがっていてうまく泳げない。

 そんなとき、いつものように、ひとりで珈琲をのんでいた遅い朝、目の前に「変化をおそれてしまう人へ」という文字が。

 テーブルに置いたままになっていた娘のレポートだった。ここに置いてあるということは読んでもいいのだろう、と判断して、そしてタイトルに惹かれて読み始めた。

プルーストの「失われた時を求めて 逃げ去る女」を読んで。というテーマでのレポート。


「歳をとるのが怖い、あの人の気持ちがいつか変わってしまうのが怖い、自分が熱中していたものにいつしか興味がなくなるのが怖い、久しぶりに帰った故郷の風景が自分の知らないものになっているのが怖い(略)」

 そんな変化をおそれる人にこの本を読んでほしい、とある。なぜなら。

 「たしかに変わってしまうことということは私たちに寂しさや悲しみを与えるかもしれない。しかしながら、私たちに「もう立ち直ることができないんじゃないのか……」と思えるほど辛いことがあった時に、なによりも強い力でそこから私たちを救ってくれるのは変化なのかもしれないということを教えてくれるからである。」

  語り手が最愛のアルベルチーヌを喪ったときのこと、そこから立ち直る様子が描かれているのが「逃げ去る女」のようだった。

 本文からの引用。

「未来のためにもう私には一つの希望しかなかった−心配よりはるかに胸を引き裂く希望である−それはアルベルチーヌを忘れることだった。いつか彼女を忘れるようになるのはわかっている」

 そして、「彼にとって忘却は希望なのである、忘却が彼を救うのである」のだと「結局その時その人間を最終的に救い、新たな一歩を踏み出す事を可能にさせるのは忘却、つまりは変化なのではないかと感じさせる一節である」と言う。

 そして「逃げ去る女」の語り手も事実、変化する。
「私にはこのような魅力を感じさせる理由が、常に変わらずアルベルチーヌを愛しているためだと思われた。ところが反対にほんとうの理由は、私の内部で忘却が進行中だったためであり、アルベルチーヌの思い出が残酷なものでなくなったため、つまりは変化したためだったのである。」

 プルーストの「忘却が進行中」と表現にどきりとする。

 レポートは続く。

 変化は無意識のうちに日常生活のなかで進行するのだろうけれど、と、いくつかの事例をあげたあとで、

「あなたがその変化をあるべきもの、なくてはならないものとして受け入れたとしたら、小さな新しい世界が開けてくるのかもしれない」、変化を受容したなら、「その変化を恐れることもなく、変化に対して後ろめたさを感じることもなく」受容したなら、「新たな環境で自我を構築」していくだろうという。

 実際、語り手はアルベルチーヌの死から立ち直る。つまり、「思い出す機会が減り、新しい生活を送る自分を「私の新しい自我」と表現し、それに慣れたと述べている」

 そして最後はこんなふうに結ばれていた。

「変化は自我を更新してくれるものであり、かつでは絶望のどん底にいた人を引き上げてくれるものである、ということをこの本は私に教えてくれた。変化はあなたが思っているように阻むべきものでも、怖がるべきものでもない。私たちに新しい世界を見させてくれるものである。もしあなたがこの本を読んだらきっと、さらに深く変化について考え、気づくことがあるでしょう。是非読んでみてください。」

 私は娘に短いメッセージを送った。

ーー逃げ去る女、読みたくなりました。「変化をおそれてしまう人」より。

 

 大好きなふたりの作家、サガンとアナイス・ニンが敬愛していたプルースト。いつかちゃんと読もうと思いつつ、でも、読まないまま終わるかもしれないし、それでもいいかな、と思っている。

 読むときがきたならそれはそれが必要だということ、そのくらいに思うことにしている。そうでも考えないと膨大な「読むべき本」のプレッシャーにつぶされてしまうから。

 それにしても、と別のエピソードとつなげて考える。

 さいきん、ずっと年下の人と話をするなかで、その人が恋の歌のいくつかを聴かせてくれて、でも、と私はたずねた。あんまり恋愛経験がないと言っていたけど、どうしてそんなに恋の歌に胸をうたれるの、と。すると、その人は答えた。経験に濃淡はあるかもしれないけれど、淡いなりに感じるとれるものがあるんです。

 そういうことなのだと思う。何年生きたかではない、どのように生きたのか。マリリンの本にも書いたことを想う。

 私は年齢を公表しているし、年齢を意識して生きてはいるけれど、でも、実年齢主義とは違う。

 みなひとしく一年という時を過ごしても、そこで何を見、何を感じ、何を想像し、何を考えるのか、違いがありすぎて、それが積み重なることを思えば、おそろしいほどに明白だ。

 年齢によって、だからこれだけのものを知っているはず、感じられるはず、なんてのは大嘘だということ。

 私は、これからも年齢を意識し生きてゆくだろう。けれど、いつだって実年齢と経験年齢ということも意識していたいし、年齢そのものから、肉体は無理にしても精神的に自由でありたいと願う。

 ささいなことに反応しささいなことに傷つき、こんな年齢になってまだこんなことで泣くんだ、って絶望するときもあるけれど、そのときはどうしようもないけれど、それでも、少し落ち着いている稀有なこんな気分のときくらい、そのときに考えたことを書き残しておこう。

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