◎Tango ブログ「言葉美術館」

◾️「タンゴは娼婦」

 

 昨夜もまた、なかなか寝つけなくて、とちゅうまで読んでそのままにしていた文庫本を手に取った。五木寛之の「ふり向けばタンゴ」というタイトルの本。いくつかのエッセイがおさめられていて、タンゴではないジャンルも含まれているのだけれど、語り下ろしの「タンゴは娼婦」がとても面白かった。

 1987年3月のだからもう30年も前なのだけれど、このころ、「タンゴ・アルゼンチーノ」という舞台が世界的に人気を集めて、テレビコマーシャルにまでタンゴが使われるようになって、一種のタンゴ・ブームがあり、それに寄せた五木寛之のタンゴ談。

 彼はタンゴの歴史をふりかえりながら、タンゴというのはさまざまな国でそれぞれの形をもって発展し、ブームが起こったり突然消えたりを繰り返してきている、「謎めいた音楽がタンゴ」と言っている。

「タンゴというのは、一つの魂のありかたであって、それが歌謡曲のかたちをとって現れようと、コマーシャルに使われようと決してタンゴの堕落にはならないというのがぼくの考え方だ。

タンゴは一所不在の娼婦のような音楽である。その魂は、変幻自在に地上のあらゆるところに忽然と現れては姿を消し、かつまたふたたび復活しては、人々の心をさらって、どこかに連れ去って行く」

 私は五木寛之のファンなので、彼のタンゴについての話に共鳴するところがあると、とても嬉しくて、いちいちラインを引きながら読んだ。

 とても嬉しかったのは、「アルゼンチン・タンゴは本物でコンチネンタル・タンゴは偽物だ」という意見に対して、それは違う、と言っているところ。タンゴに本物も偽物もない、それぞれの発展をしているだけだと。

「コンチネンタル・タンゴは、ただのダンス音楽ではなく、ヨーロッパのデカダンスと心中するようなかたちで、実に微妙にかかわりあってきた音楽」。

 たとえば、「ファシズムは、一種の絶望から生まれた思想である。親衛隊の将校たちが制服を脱いだ後、ひどく退廃的なプライベート生活のなかで、密かにタンゴを愛好するというのは、ぼくには良く分かる気がする」。

 ただし、コンチネンタル・タンゴは、「肉体ではなく、タンゴのなかのエロティシズムや、セクシーなものをきれいに削ぎ落としていったところにある」、いわば「洗練された」音楽。

 私は文化資本というものをいっさいもたない家庭で育ち、そのことにずっとコンプレックスを抱いてきたけれど、そんな私を唯一、その部分で喜ばせたのが、私が母のお腹にいたとき、母が毎日聴いていたのが、コンチネンタル・タンゴだったということだった。アルフレッド・ハウゼの。

 そのレコードを聴くために、無理してビクターの、そのころ東京に数台しかなかったステレオを買ったという、そのエピソードだった。だから私はどうしてもそのステレオを捨てることができなくて、軽井沢の家に置いてある。

 胎教音楽がコンチネンタル・タンゴ。

 それを知ったのは、私が、きっかけは覚えていないけれど、ハウゼのCDを購入して、それをかけていたときに、母が訪れて、驚いて、そんな話をしてくれたのだと記憶している。

 私は妊娠中で、その話がとても嬉しくて、そうしたら横浜でアルフレッド・ハウゼ・タンゴオーケストラのコンサートがあって、あれは何ヶ月の頃だったか忘れたけれど、少し大きくなったおなかで、出かけたのを覚えている。そして毎日のようにCDをかけていた。だから娘の胎教音楽もタンゴ。

 そのころ私はアルゼンチン・タンゴもコンチネンタルの違いも知らなくて、でも、曲のなかに厳然と存在する強靭な魂に惹かれていた。ちょうど精神的な問題をかかえていた時期だったから、胎教音楽がタンゴなのだからと大丈夫、自分を励まし、そしておなかの子にタンゴの強靭さが少しでも伝わればいいと願いながら音楽を聴いていたような気がする。

 その後は好きになった人がピアソラが好きで、ピアソラも聴いた。

 それから、タンゴを踊り始めるまで、20年かかった。まさか自分が踊るようになるなんて想像もしていなかったし、興味もなかった。ペアダンスに抵抗があったからだ。昔から、運動会なんかでやらされるフォークダンスとか、誰かと手を触れ合わせるのが苦手だった。ペアダンス、しかも体を密着させるのなんて、私の辞書になかった。なのに。ほんとうに人生って何が起こるかわからない。

 五木寛之は、タンゴについてこんなふうに言う。

「タンゴは男と女、一対一の踊りである。だからこそ相手に対する欲望を剥き出しにしなければ踊ることができない」

「タンゴは男と女が体を密着させ、お互いに相手を自分の虜にしてしまおうという、肉体的な踊りなのだ」

「タンゴは男と女がナイフをもちあって決闘しているような踊りなのだ。そして決闘の後には、周りの目をも憚らない隠微な陶酔がある」

「男と女が皮膚を密着させるというこんなエロティックな踊りは、おそらくタンゴが初めてではないか。宮廷舞踏でも社交ダンスでも、手と手は握るが、あるマナーのもと男と女は離れて踊っていた。(略)いかにタンゴが社交的に洗練されていったとはいえ、まだ根にはこうしたエロティシズムを内在させている」

 そしていかにも五木寛之らしいご意見も。

「ぼくは現代のセックスが、本来の意味での肉体性をなくしてきているような気がしてならない。ハウツーだけがどんどん進化していき、原始的な男と女が向き合い、そこでお互いをクレッシェンドしていくことがすくない。それがタンゴのなかにあるかどうかはわからないが、ありそうだという感じをいま誰もがもっている。いまタンゴが、熱いまなざしで迎えられているのは、こういう理由だろう」

  30年前の文章、念のため。

  30年経ったいまはどうなの。「本来の意味での肉体性」はどうなったの。

 もう一箇所。

「日本の踊り手さんがタンゴを踊るのを見るとき、ぼくはつらい思いをせずにはいられない。若々しい肉体でリズミカルにタンゴを踊れば踊るほどものたりなくなる。

 タンゴは大人の音楽である。爛熟して、もうまさに腐りそうな踊り手がいい。お腹が出っ張って鬢に白いものが混じってるけれども心意気だけはプレーボーイ、こういう男に踊ってほしい。(略)生活感がその踊り手の背後にしっかりと横たわっているかどうかだ。この男の人生はどんなものだったんだろう、と思わせるような年上の男がリードするとタンゴが生きる。

 若い男なら徹底的に年上の女を騙して金をまきあげようとするジゴロのような悪そうな男だ」

 ……女性はどうなのだろう、どんな女が踊るとタンゴが生きるのだろう。

 語り下ろしの最後の方で、こんなエピソードも紹介されていた。昭和20年、東京が空襲されているときに、皇族や華族のひとたちは疎開先の川奈ホテルで、B29が伊東の上空を飛んで東京に向かっていくのを見ながら、今日も東京は空襲があるのだな、と思いながらタンゴを踊っていたんだって。東京は燃えるんだなと思いながらタンゴを踊っていたんだって。

 五木寛之は言う。

「あれは絶望感だったのだろうか。タンゴはほんとにしかたのないやつなのである」

 

 私、このエッセイを読んで、さいきん、自分のなかでもやもやしていたものの正体が少しわかった気がした。

 タンゴを踊るということは、とっても根源的な欲望と向き合うことなのだということ。もちろん洗練は好きだし、品の良さだって好きだし、美しさだってほしい。

 けれど、どんなに上手にどんなに美しく踊ってみせたところで、自分が満たされなければ、何のために踊るのかということ。

 ずっと前に観た映画「ラッフルズ・ホテル」、村上龍原作、監督、主演藤谷美和子だったと記憶しているけれど、そのなかのセリフを、さいきんお友達に話したことをいま、思い出した。

 大好きなセリフがあってね。20代になったばかりのころの私には衝撃的だったの。おりこうさんだったから。細かい状況は忘れちゃったけど、藤谷美和子が言うの。

「ひとの目を気にするやつは人間のくずよ」

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