ブログ「言葉美術館」

◾️そうしなければ生きられなかった

2018/03/24

 敬愛する作家、大庭みな子のことについてちょっと調べていたら、ひとり娘の優さんとの往復書簡があることを知り、さっそく購入して、届いた日に読了。「郁る樹の詩(かおるきのうた)」

 30歳前くらいに娘を産んで、それでも自分のしたいことのために、夫と娘に対してうわのそらであったり、ひとり旅に出かけたりして、書くことに執着し、デビューしてからは精力的に執筆活動を行った、そんな作家を母にもったひとり娘が30をこえて2人の子どもの母となったとき、いったい母に何を言うのか、それを知りたかった。

 60歳を目前とした母と、30歳を過ぎた娘の、淡々とした、穏やかな、ときに哲学的な話なんかもある手紙のやりとり。

 私が知りたかったことはここだろう。

「私を育てている頃のお母様は、言いたいことがたくさんあって、そのためにとても生き生きしていたけれど、その反面、すべてが叶えられないことに対してどこかいつも腹を立てていた気がします。

 その腹立ちの部分をどことなく不安に感じていた幼い私は、いつの間にか、欲張り過ぎて腹を立てるよりは、可能な限り欲望を切り捨てた方が良い、波風を立てない程度に小さく収まっていたほうが良い、という基本的な人生方針を立ててしまったらしい。

 そのおかげもあって、三十を過ぎた今でも、まだこれといったことはしていないし、将来しそうにもない。それも、意識的な選択を繰り返すことによってこの生き方に落ち着いているのです。」

 これに対して、母、みな子はやはり「それはそれでちょっと寂しい」と返す。

 そして、

「欲望に溺れていたわたし、幼い夫や子供を放り出して自分の夢想を追うためにうろうろとあらぬところをほっつき歩いていたあの頃の自分はいったい何だったのだろうと、今になれば呆れもしたり、わびしくむなしかったことにも思うけれど、かといって、その当時の自分を全否定するわけにはいかない。」と書いたあと、こう続ける。

「その欲望がなければ、わたしは生きられなかったのだから。」

 その欲望とは、大庭みな子にとっては文学だった。なにかを探しに家族をおいてひとり出かけるけれど大したものはみつからない。けれどひたすらそれを繰り返す。

「私にとって文学とはそうしたものだった。だから、それはただ生きていた、息をしていた、そうせずにはいられなかったといったものなの。」

 娘の言葉に寂しさを感じるけれども、だって、そのようにしか生きられなかったのだ彼女は。

 そして娘はそんな母の姿を見て、ああはなりたくない、と思う。

 仲が悪いわけではない。むしろ似ている部分もあり、話もできる。それでも、母のような人生は嫌だと、思っているということ。

 じっさい手紙に書けていないことのなかに真実があるのだろう、と想像して本を閉じた。

 3週間くらい前に、1歳の娘を預けた保育園を、おそらく18年ぶりくらいに訪れた。とは言っても外から眺めただけだけれど。

 一緒に行った人と、そのころの思い出話をした。

 私から離れるのを嫌がる、その程度が抜きんでていて、保育園で会議が開かれて、慣れるまでは私も一緒に保育園で過ごすことになったくらいだったのよね。こんなのは珍しい、って先生にも言われて。そこまでして預ける必要があるのか、とさすがに自問したわ。あのころは毎朝、彼女を保育園に送って泣き叫ぶ姿に泣きながら帰ってきて、嘔吐していた。知ってた? 知らないか。でも、預けるのをやめなかったのは、預けなければ、私の時間を確保して書かなければ、私がダメになるってわかっていたから。私が死ぬよりはいいだろうという選択だったの。一緒にいてあげられるような性質でありたかった、っていまでも思ってるよ。あんなにもとめられていたのだから。でもあのときは無理だった。どうしようもなかったの、心底。」

 そんな話をした。

 娘の19歳の誕生日から2週間が経った頃のことだ。

 誕生日、なにをしたい? とたずねたら、私の手料理が食べたい、とリクエスト。娘の机に花を飾り、料理を準備し、誕生日の手紙を書いた。

 幼いころのビデオが観たいというので観た。懐かしい軽井沢の家。私は料理をしたり、お友達をもてなしたり、公園で遊んだりしてしていた。いまとはまるで違う世界で、私はけれどたしかに生きていた。

 どちらの世界が好きなのか嫌いなのか、誰も問わないから自問すれば、どちらも好きで嫌い、というつまらない自答。

 何かを選べば何かを失う。何かを選択するということは、何かを選択しないということだ。ただそれだけのこと。

 大庭みな子も手紙のなかで似たようなことを言っていた。

「何かに集中すれば、べつのものを犠牲にしなければならない。そのことは覚悟しておく必要がある。」

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