ブログ「言葉美術館」

■2011年3月3日■

2016/06/28

110303_0904013月3日。雛祭り。女の子がすこやかに美しく成長するようにとの願いで、ずっと続いている行事。

娘が産まれて、初節句に両親が贈ってくれた木目込みの雛人形を飾るのも今年で13回目。

娘の誕生日は2月17日で、誕生日が終わってから、いつも雛人形を飾る。

私が大学進学のため東京に出る以前、実家では毎年、すごく大きな雛人形を飾っていた。何段くらいあっただろう。もう、飾るのもしまうのも嫌になるくらいのもの。祖母がいつも大切に扱っていた。

娘たちがすこやかに美しく成長するように。

私もそんな願いのなか、育てられてきたんだなあ、と今朝、娘を学校に送り出した後、母からの「ちゃんと食べてる?」というメールを受信して、しみじみと雛人形を見つめた。

いつまでも母親を心配させる私はいつまでもたよりない娘だ。

それなのに、娘の母親でもある。たよりない母親。しっかりしなさい、とみんなに言われる、そんな。

いわゆる、しっかりしている母親、にはできないものを私なりに彼女に与えられているはず、と信じることしか今の私にはできない。

 

男女間の愛であれ、親子間の愛であれ、人は、そのひとなりのやり方でしか、人を愛せない。

それがたとえ、相手にとっては不満であっても、「違う、そういうのじゃないのがいいよ」と言われたとしても、私はほかの人にはなれないから、自分のやり方で、自分がもちうる愛のエネルギーをせいいっぱい、与えるしかない。

そう思ってきた。

けれど、今は揺れている。

自分のやり方とは何なのかを見失っている。見失っていると言うと違うかな。相手の瞳の奥底を覗きこんで、そこにある切実な欲求をなんとか見抜いて、その欲求に少しでも応えられるなら、何かを変えることはできるかもしれない。そんなふうに、揺れている。

2011年の33日もまた、ほかの日と同じ、唯一無二の一日。

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